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あなたは今、幸せですか

 「あなたは今、幸せですか」

 ひと昔前のベタなフォークソングの歌詞のような質問を、突然されたことがある。それまで会ったことのなかった遠い親戚の男性からだった。

 両親が相次いで亡くなり、住所録をもとにその人に訃報の葉書を出したところ、スマホに電話が来たのだ。父のいとこで、当時八十一歳だった。
 
 私は父に続いて母が亡くなったことを改めて報告した。それを聞いたあと、その人はこの問いをした。外を歩きながら電話を受けていた私は、普段考えたことのない問いだったので戸惑って、「ええと……」と言った。

 その人は質問を重ねた。

 「結婚していますか。家族はいますか。ひとりぼっちではないですか」

 おじさんは私がひとりっ子であることを知っていたから、両親を失ってひとりぼっちになっていないか、心配してくれていたのだ。私は急いで答えた。

 「はい、結婚しています。夫と娘がいます。幸せです」

 「それは良かった」

 私の答えを聞くと、おじさんは何だか電話を早く切りたそうにした。でも、おじさんの声が遠い昔に聞いた祖父の声に似ていて懐かしかったので、私は切るのが惜しくて「おじさまも奥様もお元気ですか」と聞いた。

 「私は元気ですが、家内が認知症になってしまい、大変です」

 おじさんはそう答えた。ああ、それなら早く電話を切らねばと、私は電話を切った。

 かつて私は亡き母から、この人は親切な人で、年を取ってから離婚してひとりぼっちになった親戚の女性の面倒を最後まで見ていたという話を、聞いたことがあった。だから、おじさんは今や自分が妻の介護をする身ではあるものの、もしも私がひとりぼっちだと聞いたら何かしてやらなくてはいけないと思ったのだろう、だけど、私が幸せだと答えたので肩を撫で下ろしたのかもしれない、と思った。

 しかし、それは半分当たっていただけだった。

 おじさんが亡くなったという知らせが来たのは、それから二年後のことである。私の年賀状を見て、息子が電話をくれたのだ。息子がいることも、私は知らなかった。彼によると、おじさんは亡くなる四カ月前に脳出血で自宅で倒れた。意識はあったが、体を動かすことができず、しばらく倒れたままでいたという。

 「家には母と姉がいたのですが、姉は長年、統合失調症を患っておりまして、二人とも救急車を呼ばなかったんです。離れて暮らしている僕のところに連絡が来たのは数日後でした」と息子は話した。

 統合失調症だという彼の姉は私より一つ年下だった。父親が死んだ今は精神科病院に入院しているという。発症は若いころなので、もう三十年以上闘病していることになる。この姉弟と私は「はとこ」の関係になるが、同じ世代なのに、これまで私は何も知らずにいて、申し訳ない気がした。

 翌年、お墓参りに行って息子と初めて会ったとき、私はおじさんから「あなたは今、幸せですか」と電話で聞かれた話をした。彼は「姉が長く精神的な問題を抱えていたので、そんな変なことを聞いてしまったのでしょう。すみません」と苦笑いした。彼自身は大学入学を機に家を離れ、以来、父親と話をしたことはほとんどなかったという。父親が入院してから、初めていろいろ話すことができたと話してくれた。

 私には、おじさんが倒れた際の状況を彼から聞いたときに抱いた疑問があった。私の父は晩年、認知症になったので、おじさんが倒れていても妻が救急車を呼ばないという状況は、認知症の程度が重ければありうるのかもしれないと思った。けれど、統合失調症を患った人に会ったことはなかったから、私より一つ年が違うだけの娘が、父親が倒れているのを見ても救急車を呼ばないでいたという事態はなかなか想像できなかった。でも、それについて彼に尋ねるのは何だか憚られた。お墓参りの際、お母さんにはご挨拶したが、入院中のお姉さんに会うこともなかった。

 昨年の暮れ、統合失調症の姉と両親の姿を息子が記録した「どうすればよかったか?」(藤野知明監督)というドキュメンタリー映画が公開されると知ったとき、真っ先に思ったのが、これを見れば、彼女が救急車を呼ばなかった疑問が解けるのではないかということだった。

 試写を見て、疑問はすぐに解けた。映画は、医学生だったときに統合失調症の症状が表れた藤野監督の八歳上の姉と、彼女を病気とは認めず精神科の受診から遠ざけた両親の姿を記録したものだ。もちろん、統合失調症の症状は人それぞれなのだが、私の「はとこ」がお父さんが倒れているのを見ても救急車を呼ばないでいたことは、自然なことだと実感できた。それほど映画の中の藤野さんの姉の症状は重いものだった。

 統合失調症は幻覚や妄想などの症状を特徴とする精神疾患で、十代後半から三十代で発症することが多いといわれる。原因はまだ解明されていない。藤野さんの姉は二〇二一年、肺がんのため六十二歳で亡くなっている。映画に通底するのは、家族でありながら分かり合えないもどかしさ、そして、家族としてあれでよかったのかという自問だ。

 私は藤野さんに取材を申し込み、インタビューをする機会を得た(記事は昨年十二月発行の週刊エコノミストに掲載された)。

 藤野さんの姉の最初の症状は、二十四歳のある日の夕飯後、突然大声で「パパがテレビの歌合戦に出て歌っていたとき、応援しなくてごめんね」といった、事実でないことを叫び始めたというものだった。それまでの姉は勉強ができ、絵とピアノがうまく、中学校では生徒会の副会長をしていて、藤野さんにとっては雲の上のような存在だったという。両親は共働きの医者、研究者で忙しかったので、姉は年の離れた藤野さんをかわいがり、面倒を見てくれたそうだ。

 両親は藤野さんに「姉は勉強ばかりさせた両親に復讐するため、統合失調症のようにふるまっているだけだ」と説明した。でも、その後も症状は頻発したので、そんなはずはないだろうと藤野さんは思ったという。一方で、両親は自分より知識がある研究者だ。事実と違うことを言うはずがないとも、藤野さんは考えた。

 大学四年生のとき、専門書をじっくり読み、姉は統合失調症であり、両親の「ストーリー」は事実と違うと確信した藤野さんは、両親に姉を受診させるべきだと言ったが、両親はやっぱり認めなかった。

 「ご両親はなぜ病気を認めなかったのでしょう」と聞いた私に、藤野さんは答えた。

 「はじめは恥じて隠しているのだと思っていました。でも今は、当時はよく効く薬がまだなかったので、受診しても治療が期待できないと判断したのではないかと思っています。もう一つの理由は、病院に行くと通院歴が残り、姉が医師になったり研究者になったりする道が閉ざされてしまうから、自分たちでこっそり治そうとしたのかもしれない。今はこれが一番近い気がしています」

 藤野さんのお姉さんは発症から四半世紀後の二〇〇八年、精神科病院に入院し、症状は劇的に改善した。ちょうどそのころ登場した「非定型抗精神病薬」という新薬が奏功したという。家の中で日常生活を送る分には困らないぐらいのコミュニケーションは取れるようになり、藤野さんはさらに姉が社会に出て仕事ができるほどになるといいと期待したが、肺がんが見つかり、統合失調症の回復は道半ばのまま、亡くなった。

 映画の中で、お姉さんの葬儀の際にお父さんが参列者に、「娘はよく研究を手伝ってくれました」と挨拶する場面がある。

 「書いている論文はまだ途中ですが、いつか共著として発表したいと思います」

 研究者だった両親は退職後、建て替えた自宅に「研究室」を作り、お姉さんと三人で「研究」を続けていたのだ。でも、どう見ても、お姉さんが研究を手伝っていると言うのは無理があるようだった。インタビューのとき、この場面が印象的だったと話すと、藤野さんは、葬儀ではもともと映画の撮影をするつもりはなかったが、姉が亡くなった瞬間から父がまたそう信じたいと自分で思っている「ストーリー」を語り始め、姉が統合失調症だったという事実を塗り変えている気がしたので、急いで撮影したのだと説明した。

 この場面のお父さんを見たとき、私はまるで自分の母親を見ているようだと思った。私の母は、自分の夫が認知症になったとき、藤野さんのお父さんと同じく、絶対に認知症だと認めなかった。母にとって父は「ハンサムで優秀な」自慢の夫だったので、認知症になるのは恥ずべきことのようだった。そして、認知症である事実を受け入れないため、マニュアルによく書いてある「認知症患者にしてはいけない対応」をすべてして、父の症状を悪化させた。私が抗議すると、母は「あんたはパパをバカにしている」と私を罵った。罵るたび、過去は美化されていき、現実は母の見栄で覆われた。

 藤野さんの家が、子どもが大きくなっても家族で「パパ、ママ」と呼び合っているのも、私の家の雰囲気と似ていて切なくなった。藤野さん自身は、姉の受診の進言を拒否されて以来、家に寄り着かないようになってはいたものの、それでも常に両親と姉を気遣い、のちには介護をしていた。藤野さんの家は仲の良い家族だったと思う。その何とも言えない不思議な結束力も、似ているのだった。

 映像制作を学んだ藤野さんは二〇〇一年から二十年間、札幌市にある実家へ帰省するたびに撮影を行った。藤野さんがある日、実家に帰ると、玄関に鎖と南京錠がかけられ、姉は家に閉じ込められていた。姉があちこちに電話をかけまくるため、母親が電話機を引き出しの中に隠していたこともあったという。

 「どうすればよかったか?」の試写案内状には「言いたくない 家族のこと」という宣伝文が書いてあった。まったくその通りで、私の父のいとこであるおじさんも、自分の娘が病気であることは他言していなかったのだろう。この三十年の間、おじさんの家には、この映画のようなさまざまなことが起こっていたのだろう。

 この映画は藤野さん一家のことだけが描かれているにも関わらず、見ている者の家族に思いを馳せさせる力も持っているようで、私の頭の中ではいつの間にか、藤野さん一家の姿がおじさんや私の家族とシンクロするようになってしまった。

 藤野さんのお姉さんの三十年間の心の内はどんなものだったのか、どんなことを考えていたのか、「あなたは今、幸せですか」と私に聞いたときのおじさんの気持ちはどんなだったのか、家で倒れたとき、おじさんの視界にはどんな風景が写っていたのか、お父さんが倒れているのを見たとき、娘はどんな気持ちだったのか……。いつまでも考えている。

(黒の会手帖第28号 2025年1月)

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