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取材中に泣いた話

 知り合いの映画宣伝の人に依頼され、樋口了一さんというシンガーソングライターを取材した。現在五十九歳の樋口さんは十四年前にパーキンソン病と診断され、闘病しながら音楽活動を続けている。パーキンソン病の患者が主人公の映画「いまダンスをするのは誰だ?」に初出演したので、公開にあわせて記事にしてほしいという話だった。

 取材の依頼を受けたとき、私はよほど変な内容でない限り、受けるようにしている。今はフリーランスなので、掲載できる場所を確保した上で、引き受ける。今回は「難病パーキンソン病の患者が主人公の映画に、パーキンソン病当事者のミュージシャンが出演する。演技するのも初めて」という内容で見出しが付けやすいので、「週刊エコノミスト」のインタビュー欄に掲載の了承を得て、すぐOKの返事をした。でも、今回はそのことに加え、私の父がパーキンソン病を患っていたので、当事者と会ってみたいという思いがあった。これまで父以外のパーキンソン病患者と会ったことがなかったのだ。

 この映画の企画者は東京在住で証券マンだった故・松野幹孝さんだ。松野さんは二〇一二年にパーキンソン病と診断されたが、病気の実情が知られていないため、社内の理解が得られず、苦しんだ体験をしたという。この病気のことを知ってもらい、孤立する人を救いたいという思いで原案を作成し、映画の実現に奔走したが、二〇二二年夏の撮影を前に、脳出血のため六十七歳で亡くなった。

 パーキンソン病は大脳の下にある中脳の黒質ドーパミン神経細胞が減少して起こる進行性の病気だ。体のふるえや筋肉のこわばりなどの運動症状のほか、起立性低血圧などの自律神経障害や抑うつ、認知症などの精神症状が合併することもある。原因は分かっておらず、国の指定難病のひとつになっている。

 映画は、仕事一筋で家庭を顧みなかった主人公がある日、若年性パーキンソン病と診断され、出会った人たちや、ダンスを通じて自分の生き方を見つめ直すという物語。松野さんの原案をもとに古新舜監督が脚本にし、クラウドファンディングで資金を集めて映画化が実現した。当初、樋口さんは古新監督から主題歌を依頼されて引き受けたが、数カ月後に主演も依頼されたのだという。

 初めてお会いした樋口さんのことを、音楽業界に疎い私は失礼ながら知らなかったのだが、中学一年生のときにビートルズの映画を見て、ミュージシャンになりたいと思い、高校、大学とバンド活動に打ち込み、大学中退後の一九九三年、二十九歳のときにメジャーデビューしたそうだ。北海道テレビ放送の人気バラエティー番組「水曜どうでしょう」のテーマソングを制作したり、SMAPや石川さゆりらに楽曲を提供したりし、二〇〇九年には「手紙 親愛なる子供たちへ」という曲で日本レコード大賞優秀作品賞を受賞した。

 映画のラストで樋口さん扮する主人公がダンスを披露するシーンがある。樋口さん自身、踊るのは小学校でフォークダンスをやったとき以来で、今回の出演のために振り付けを練習したそうだが、ぎこちなさも残る中、見違えるほどかっこよく見えたときがあった。それは樋口さんが「ここはギターを弾く感じでお願いしますと言われたので、自由にやった」という場面だった。実際にギターを手にしてはいないのに、やっぱりミュージシャンってかっこいいんだなあと思った瞬間だった。

 樋口さんが身体に異変を感じたのは四十二歳のとき、パソコンを右手だけ打ちづらくなったことだったという。整体や整形外科、かみ合わせが悪いせいかと歯医者にも行ったが良くならず、そのうち右足が前に出なくなったり、ギターが弾きにくくなったり、声が出づらくなったりし、ようやくパーキンソン病と診断されるまで三年を要した。やっと診断がついたときには「ついに正体を現してくれたな」と思ったそうだが、同時にそれまでパーキンソン病が難病で、次第に進行することもネットで調べて知っていたので、「このままこれからいろんなことができなくなっていくのかと思いました」と樋口さんは話した。

 私の父がパーキンソン病といわれたのは二〇〇一年のクリスマスで、六十六歳のときだった。そのころの記憶が私にはあまりないのだが、私は妊娠中だった。勤めていた新聞社の夜勤を終え、日が変わった午前一時に携帯電話の留守電をチェックすると、母のメッセージが入っていた。「パパがパーキンソン病の疑いがあると病院でいわれて、年が明けたら精密検査をする」という内容だった。

 病院に私はなぜ同行してあげなかったのかなと今ごろ思うが、初めての妊娠で、大きくなりつつあるおなかを抱えながら仕事をこなすのに必死だったのだと思う。診断結果についての母の電話での説明は「パーキンソン病はだんだん身体が動かなくなる病気だけど、寝たきりになるまでは何十年もかかるから、お医者さんからはそれまでに寿命を終える人が多いと言われた」というざっくりとしたものだった。

 二〇〇一年の夏、私が自分の妊娠を告げたとき、父は「孫の顔を見てから死のうと思っていたから、これで早く死ねる」と冗談めかして言った。そのころ、父はひどく疲れがちだったが、私は年相応のものだと軽視していた。父は困った人の世話をすることは好きだったが、自分は助けを求めたりしない人だった。きっとそのころから、いや、おそらくその前から、父は不調を感じていただろう。樋口さんの話を聞いて、私は父がどんなに不安だったろうと思うと同時に、その不安を推し量れなかった自分を情けなく思った。

 私は普段、記事には自分の主張や意見を入れず、情報だけを正確に伝えることを心がけている。その話題や人を取り上げる時点で、ある程度の主観は入るのだが、自分の主張を訴えるのは記者の仕事ではないと思うからだ。だから、今回もパーキンソン病患者に会いたいとは思ったものの、当然ながら自分の話などをわざわざするつもりはなかった。しかし、樋口さんに挨拶をして映画の感想を伝えたとき、「父がパーキンソン病だったので、映画の中の樋口さんの歩き方を見て父を思い出しました」と言ってしまった。

 すると、樋口さんは「お父さんはいつ発症したのですか」と聞いてくださったので、私は「二〇〇一年に見つかって、それから薬物療法をしながら編集者の仕事も続けていたんですけど、二〇一一年に転んで大腿骨を折ってから、一気に悪くなって、二〇一八年に亡くなりました」などとべらべら喋り出した。樋口さんは切れ長の優しそうな目で聞いてくれた。私は自分の話をしていると時間が足りなくなってしまうことに気づき、取材をスタートさせた。

 樋口さんが原案者の松野さんに会ったのは映画の主題歌を担当することが決まった際の一度だけだったそうだ。「穏やかで物腰の柔らかい人でした」と話した。「松野さんが急逝されて驚きましたか」と尋ねると、樋口さんはこう答えた。

「そうですね。でもこういうことを言うと誤解を呼ぶかもしれないんですけど、僕はこの病気の人が亡くなると、いつもこう感じるんですよ。僕らはパーキンソン病という荷物を持って歩いているじゃないですか。僕は死は命の終わりだと思っていないので、荷物を下ろすこと自体は別に悲しいことじゃなくて、逆に喜ばしいことだって」

 それを聞いた私は、突然、涙ぐんだ。最後は寝たきりとなった父も、パーキンソン病という荷物を下ろせて良かったのかなと考えたのだ。

「そうおっしゃっていただくと、なんだか救われる気がします」

 樋口さんは相変わらず優しい目をしていたものの、インタビュアーが突然涙ぐんで、戸惑ったようだった。戸惑いに気づいた私は軌道修正して取材を続けた。

 樋口さんが四十五歳でパーキンソン病と診断されたとき、お子さんはまだ五歳と三歳だったという。「奥様は何とおっしゃっていましたか」と聞くと、樋口さんは「妻は全く普通に接してくれたので、逆にプレッシャーを感じずにいることができました。今もことさら優しくというのでもなく、いたって普通です」と答えた。

 私の頭の中に、父がパーキンソン病や、のちに認知症を発症したことを決して受け入れず、父に怒りまくっていた母の姿が浮かんだ。母もがんにかかり、闘病が始まっていたので、余裕がなかったのだと思う。私は樋口さんにまた余計なことを言った。

「私の母は、父が起立性低血圧で起き上がれないと『早く起きなさい』と言ったり、足がすくんで前に出ないときは押したりしたんですよ」

「きっとお母さんは、お父さんが弱くなっていくのが耐えられなかったんでしょうね」

 樋口さんは優しく答えた。

 現在の樋口さんの体調は薬でうまくコントロールできており、熊本を拠点にライブや作曲活動を続けている。「今後の希望や、こんなふうにしていきたいというのはありますか」と聞くと、こう言った。

 「僕はパーキンソン病という荷物を持って歩いているという認識なので、もう荷物を下ろせるよというときがいつ来るのか、秒読みするような楽しさがあります。もし今が二十代だったら、まだ先が長いなと思うかもしれないけれど、時間が残り少ないということが逆に救いになっているような気もします。そういう心持ちになったのはつい先月ぐらいのことなんですけどね」

 私はもう一度尋ねた。

「ご家族は今も優しいというよりは普通に接する感じですか。私はあんまり父に優しくしてあげなかったので、後悔しているんですけど……普通でいいんですね?」

 「いいです、普通で。逆にお父さん、井上さんは十分優しかったよって思ってる。そう言ってくれてると思いますよ」

 こう言われて、私はまたも泣くのを止められなくなり、涙を拭いながら取材を終えた。感情過多のインタビュアーと思われただろう。

 もしも父に会う機会があったら、「パパもパーキンソン病という荷物を持って歩いていると思っていたの? 下ろせて良かった?」と聞いてみたい。そう思っている。

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