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医療的ケア児のルポ「命あるがままに」野辺明子さんインタビュー

「医療的ケア児」ルポを出版 野辺明子 「先天性四肢障害児父母の会」元会長


週刊エコノミスト 2021年12月21日号

 たんの吸引など日常的な医療的ケアが欠かせない子どもは日本に約2万人いるとされる。野辺明子さんは、そうした「医療的ケア児」の日常を丹念に取材し、『命あるがままに』として出版した。執筆に込めた思いなどを聞いた。

(聞き手=井上志津・ライター)

「家族は話し出すと止まらない。私も同じだった」

「あなた1人じゃない。きっと仲間はいます。どんなに小さくてもいいから仲間と出会うために声を上げてください」

── 「医療的ケア児」6人とその家族を取材した『命あるがままに』(中央法規出版)を昨年12月に刊行しました。本を書いたきっかけを教えてください。

野辺 「医療的ケア児と家族をテーマにした本を書きませんか」と出版社から提案がありました。医療的ケア児とは人工呼吸器やたんの吸引などの「医療的ケア」が常に必要な子どものことで、 会長を務めた「先天性四肢障害児父母の会」の会員にも医療的ケア児に該当する子がいたので、ちゅうちょなく引き受けました。ただ、取材に協力してくれる人がいるのかどうかが不安でした。匿名ではなく実名で登場してほしかったので。

── 実名にこだわったのはなぜですか。

野辺 どこどこに何々ちゃんが、お母さん、お父さん、きょうだいと一緒に暮らしていますよ、という普通の生活リポートにしたかったからです。たまたま病気や障害があるために医療的ケアが必要なだけであって、あなたの街の身近なところにもこうした家族がいるかもしれない。散歩の途中であいさつできるといいですね、という本にしたかった。病名を記載したのも、その病独自の疾患の現れ方や生活の苦労があるため、必要だと考えました。そうした希望を受け入れた6家族が登場してくれました。

 厚生労働省によると、日本の医療的ケア児は現在、全国に約2万人いると推計される。小児医療の進歩により、超未熟児や先天的な疾病を持って生まれた子どもも、NICU(新生児集中治療室)に長期入院したりすることで、命が助かるようになった。ただ、退院後もたんの吸引や経管栄養(のどを経由せず体外から必要な栄養を注入する胃ろうなどの措置)が必要な子どもは少なくなく、そうした医療的ケアを家族が担ってきた。

 医療的ケア児はこの10年で倍増しているとされ、野辺さんの著書でも超低出生体重児として生まれた後、人工呼吸器をつけて退院した子、出生前に先天性水頭症と診断された子、人工呼吸器をつけたまま大学を卒業し、社会人として活躍する先天性ミオパチー(先天的に筋力が弱い難病) の青年ら6人が登場し、家族との生活ぶりが紹介されている。小児在宅医療の専門家である前田浩利さんが解説を担当した。

書き上げるまで3年

── 取材を通して印象に残ったことは?

野辺 皆さん、自分たちに育てられるか、初めは自信がなかったとおっしゃっていました。それが、例えば夜間に何度も吸引が必要で熟睡できず、ダウン寸前の生活の中でも、ちょっとした赤ちゃんの表情の変化に成長の兆しを見いだして、子育ての楽しさや喜びを感じるようになったと。健常児の子育てと同じですよね。お話を聞くたび、すごいなあと脱帽しました。小児在宅医療の医師や訪問看護師、訪問リハビリテーションのスタッフなど、さまざまな人たちが関わって支えていることにも胸を打たれました。そういう意味では、健常児の子育ての環境よりも人のつながりは濃密だなとも感じました。

── 2018年1月に取材を開始し、書き上げるまでに3年かかったそうですね。

野辺 ご家族が伝えたいと思っていることをきちっと文章にできているか、気になりました。ご家族はいったん話し始めると、これも話したい、あれも話したいという感じ。私も娘が右手指欠損で生まれた時、同じ気持ちだったことを思い出しました。この苦しみをこの人は分かってくれるのだろうかと、最初は話す相手を選びましたからね。お母さんやお父さんたちが思いの丈をざっくばらんに話せる場が、もっとあるといいなと思いました。

 野辺さんの長女は1972年、右手の指がない障害を持って生まれた。75年、3歳になった感慨をつづった文章を毎日新聞に投稿したのがきっかけで同じ悩みを抱えた家族が集まり、同年夏に「先天性四肢障害児父母の会」を結成。野辺さんは会長となった。95年に会長を退いた後も、執筆活動などを通じて障害児や障害者の支援活動に携わっている。

── 娘さんの障害を知った時の気持ちは?

野辺 当時の私は障害児の問題なんて考えたことがなかったし、人ごとでした。それが娘の指がないと知り、泣いて……。五体満足が人間の基本条件だと思い込んでいたので、この子が幸せな人生を送れると思えなかったんです。恥ずかしくて、娘の小さな右手に手袋をかぶせて隠しました。

── 吹っ切れたのはいつですか。

野辺 娘が1歳を過ぎたころ、形成手術をしたんです。私は「包帯が取れたら5本指が現れるのではないか」と期待していたのですが、包帯を取っても、機能は少し改善したものの、指はないままで、落胆してしまいました。でも、同時に吹っ切れたのです。ないものをいつまでも追い求めても、この子はこの手で生きていくしかないのだから、親が受け入れなければこの子がかわいそうだと。とはいえ、それからもしばらくは手袋をはめたり外したり、グズグズしていましたけどね。

「原因不明」だった長女の障害

── 娘さんが3歳になった時、親としての心情を新聞に投稿しましたね。

野辺 当時はサリドマイドの薬害(睡眠薬などとして販売されたサリドマイドが、服用した妊婦の胎児に奇形を引き起こした薬害)を巡る訴訟が和解したころでしたが、娘の場合は原因が分かりませんでした。原因が分からなくても、このように指のない子どもが存在していることを世間の人に知ってほしいという気持ちがありました。投稿がきっかけで「うちの子も同じです」という電話や手紙が全国から来るようになりました。

 電話は夜が多かったですよ。地方からだと、当時は午後8時を過ぎると料金が安くなりましたからね。家族が寝た後にこっそりかけてくる人もいました。「みんなで会いましょう」と、その年の夏、父母の会を結成しました。今でも忘れられないのは、会員たちが上肢の欠損を隠すため、真夏なのに子どもに長袖の服を着せていたことです。60家族でスタートし、1年後には200家族に増えました。

── 埼玉県の自宅が事務局になりました。

野辺 手書きの「父母の会通信」を毎月発行しました。発送時には埼玉支部のお母さんたちが家に集まって、お昼にラーメンを食べながら作業しました。みんな子ども連れで大変でしたが、子どもの問題を初めて社会に提起できることがうれしかった。原因不明であることは親にとって大きな悩みでしたから。

── その後の会の歩みは?

野辺 発足時は、先天異常と環境問題との関連性を問う原因究明の活動が柱でした。80年代は主に小学校の音楽の授業で使う(上肢に障害がある子向けの)「改良笛」購入の公費負担を自治体に要望しました。その後、会は子どもたちのありのままの姿を受け止めようという方向へ少しずつ変わりました。今も続けている活動の一つに、日本手外科学会などのロビーでの写真パネル展示があります。整形外科医も形成外科医も、担当した子が退院後、どうやって暮らしているかは、なかなか分からないんですよ。だから、日常生活の様子を伝えようと。

── 現在の会の状況は?

野辺 会員数の減少が悩みですね。今はインターネットで情報を入手できますから、わざわざ入会して集まりに出かけたりしないんですね。でも、仕方ないです。父母の会は都道府県ごとに支部があって、年に何回かレクリエーションや勉強会、おしゃべり会などを開催しています。泥臭いけれど、家族同士の交流を大事にしてきたのが特徴なので……。

「支援法」が9月に施行

── 娘さんは来年50歳ですね。

野辺 早いですね。孫2人も成人しました。娘の誕生で、それまでの私の価値観が変わったことは、娘から私に贈られたプレゼントだったと思います。父母の会の親たちや、医療的ケア児のお父さん、お母さんたちも同じではないでしょうか。障害者問題にあまり関わったことのない人から「大変ですね」とか「ご苦労さま」とか言われることがありますが、喜びもあることを知ってほしいです。

 医療的ケア児を巡っては、受け入れ体制を整えている保育所などの施設は限られているのが実情で、家族に重い負担が生じている。そうした医療的ケア児の支援について、国や地方自治体の「責務」を定めた「医療的ケア児支援法」が今年6月、国会で成立し、9月に施行された。医療的ケア児が通う学校や保育所などに看護師を配置するといった支援を通じ、子どもの成長の機会を確保しつつ家族の負担を軽減する。

── 新法には都道府県が「支援センター」を設置することも盛り込むなど、子どもや家族を支えることに力点を置いています。

野辺 医療者にどんなに熱い思いがあって、親に愛情と意欲があっても、それを支える制度や法律がなければダメだと感じていたので、成立して本当に良かったと思います。法律には自治体間の格差是正も明記されていますから、今後はどこに住んでいても声を上げやすくなりますし、社会的支援を進める大きな力になります。

── 今、障害児を抱えている人が目の前にいたら何と言いますか。

野辺 あなた1人じゃないですよ。きっと仲間はいますよ。仲間と出会うために、どんな小さくてもいいから声を上げてみてくださいって言いたいです。

 野辺明子(のべ・あきこ)


1944年、東京都生まれ。上智大学文学部卒業。長女に右手指欠損の障害があったことから75年、「先天性四肢障害児父母の会」を設立し、会長に。95年に会長を退いてからも障害児・障害者運動に関わる。著書に『さっちゃんのまほうのて』(共著)、『魔法の手の子どもたち 「先天異常」を生きる』『障害をもつ子を産むということ 19人の体験』(共編)など。


https://weekly-economist.mainichi.jp/articles/20211221/se1/00m/020/006000c


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