ドキュメンタリー映画「どうすればよかったか?」公開――藤野知明さんインタビュー
週刊エコノミスト 2024年12月10・17日合併号
映画監督 藤野知明
ある日、事実でないことを叫び始めた姉。しかし、両親は姉を受診から遠ざけた。なぜなのか。もっといい方法はなかったのか。映画監督・藤野知明さん自身の20年にわたる家族の記録が、ドキュメンタリー映画として公開される。
(聞き手=井上志津・ライター)
「統合失調症の姉と、認めない両親の記録です」
── 12月7日公開のドキュメンタリー映画「どうすればよかったか?」は、統合失調症の症状が表れた藤野さんの8歳上の姉と、彼女を病気とは認めず精神科の受診から遠ざけた両親の姿を記録しています。姉と両親の姿を最初に記録しようと思ったのはいつですか。
藤野 初めて私が家の様子を記録したのは1992年です。姉は当時33歳、私は大学生で、医学生だった姉が統合失調症と思われる症状で救急車で運ばれた時から9年後でした。就職でもう家を出るから記録しておこうと思い、姉が居間と応接間を行き来しながらしゃべり続け、父がなだめている様子をウォークマンで録音しました。ビデオカメラは持っていませんでした。今回、その音を映画の冒頭に使っていますが、当時は作品にするつもりはまったくありませんでした。ただ記録用だったんです。
── お姉さんの最初の症状はどんなものだったのでしょう。
藤野 夕飯後、私は隣の部屋にいたのですが、ベッドに寝ていた姉が突然大声で「パパがテレビの歌合戦に出て歌っていた時、応援しなくてごめんね」といった、事実でないことを叫び始めたのです。それまでの姉は勉強ができ、絵とピアノがうまく、中学校では生徒会の副会長をしていて、私にとっては雲の上のような存在でした。両親は共働きの医者、研究者で、食事はお手伝いさんが作っていましたが、姉は年の離れた私をかわいがり、面倒を見てくれました。
── 両親は藤野さんに「姉は勉強ばかりさせた両親に復讐(ふくしゅう)するため、統合失調症のようにふるまっているだけだ」と説明しますが、藤野さんは信じましたか。
藤野 父は「お姉ちゃんを診た医師は『まったく問題ない』と言った」と私に説明しましたが、その後も症状は頻発したので、そんなはずはないだろうと感じました。けれど、父は医学部を出た研究者で私より知識があるし、事実と違うことを言うはずがないとも思っていました。私が疑っていることを姉が感じて興奮させてしまったらいけないので、私は大学ではボート部に入り、家に寄り付かなくなりました。
実家の玄関に鎖、南京錠
── お姉さんが統合失調症だと思ったのはいつですか。
藤野 私が大学4年生の時です。専門書をじっくり読み、姉は統合失調症で、両親の「ストーリー」は事実と違うと思いました。姉を受診させるべきだと両親に言いましたが、両親はやっぱり認めませんでした。私は自分が嫌になり、小学生以降の自分の写真や教科書やノートを捨てました。両親の言うことを黙って聞き、素直に勉強していたころの自分が許せなくなったんです。
── 両親はなぜ病気を認めなかったのでしょう。
藤野 当初は恥じて隠しているのだと思っていました。でも今は、当時はよく効く薬がまだなかったので、受診しても治療が期待できないと判断したのではないかと思っています。もう一つの理由は、病院に行くと通院歴が残り、姉が医師になったり研究者になったりする道が閉ざされてしまうから、自分たちでこっそり治そうとしたのかもしれない。今はこれが一番近い気がしています。
── 藤野さんは01年からビデオカメラで家族の撮影を始めましたが、なぜでしょうか。
藤野 92年に録音してから何も記録していなかったので、やはり残しておいた方がいいだろうと、今度はカメラで撮りました。作品にするつもりはこの時もまったくなく、いつか受診できた時に医師に見せられるかもという程度でした。それまでは私が両親と話をする時、ケンカになることが多かったのですが、カメラがあるとお互い、丁寧にしゃべったりしてなぜか冷静になるんですよね。だから、落ち着いて話ができたと思います。
入院後、症状は劇的に改善
── 藤野さんは03年、お姉さんを最初に診た医師に会うことができました。
藤野 医師は当時のことを「若い人は精神状態の変化が大きいから、たった1回の診察で診断を下すことはできなかった」と話してくれたので、私は両親の説明は事実ではなかったと確信しました。医師は、今は両親2人で姉の世話をしているけれど、両親のうち1人が病気になれば1人で2人の面倒を見なければいけなくなるので、その時が姉を受診させるチャンスだ、とのアドバイスもくれました。
でも、そのチャンスを待っている間にも、姉があちこち電話をかけるので、母が電話機を外して引き出しに隠したり、姉が外に出ないように母が玄関のドアに南京錠をかけたり……。家に帰って、鎖と南京錠を見た時は本当にびっくりしました。
「受け入れがたい事実でも、認めないことには解決できない。我が家はその〝失敗例”でした」
小さいころから絵を描くのが好きで、高校生からは映画もよく見ていたという藤野さん。北海道大学農学部を卒業し、横浜市の住宅メーカーで2年間働いたが、日本映画学校(現・日本映画大学)に入学して映像の世界に飛び込む。98年に卒業した後は制作会社などに勤めながら映像制作を継続。母の死後、父と姉の介護のため12年に札幌市に戻り、13年にプロデューサーの淺野由美子さんと制作会社「動画工房ぞうしま」を設立した。
研究者が持ち去った先祖の遺骨返還を求めるアイヌの人々に目を向け、ドキュメンタリー映画「八十五年ぶりの帰還 アイヌ遺骨 杵臼コタンへ」(17年)などを制作。姉が亡くなった翌22年、映像作家たちが山形県に長期滞在して研修する「山形ドキュメンタリー道場4」に参加し、撮りためた家族の映像を30分にまとめて提出。好意的な受け止めが多かったことで今作の制作を決め、1時間41分の作品としてまとめた。
―― お姉さんは08年、精神科病院に入院することができ、症状は劇的に改善しました。
藤野 ちょうどそのころ、新しい「非定型抗精神病薬」という薬が登場して、それが効いたんです。ここまで良くなるのかと驚きました。両親も喜んではいましたが、もともと姉は病気ではないというスタンスだったので……。でも、家の中で日常生活を送る分には困らないぐらいのコミュニケーションは取れるようになりました。社会に出て仕事ができるほどにはならなかったですが……。私は作業所に通うといいのではないかと考えていましたが、肺がんが見つかり、統合失調症の回復は道半ばになりました。
葬儀でも変わらなかった父
―― 藤野さんはいつごろから映像をまとめて作品にしようと考えていたのでしょう。
藤野 姉の症状が改善したころからです。私は四半世紀、姉は統合失調症ではないか、治療すれば良くなるのではないかと考えてきました。その通りのことが起きたので、この過程を映像で伝えることには意味があると思ったのです。
―― 作品の中でお姉さんの葬儀の際、お父さんが「娘はよく研究を手伝ってくれました」と言っていたのが印象的でした。研究者だった両親は退職後、建て替えた自宅に「研究室」を作り、お姉さんと3人で「研究」を続けていたのですね。
藤野 葬儀の時、私は撮るつもりはなかったのですが、姉が亡くなった瞬間から、父がまたそう信じたいと自分で思っている「ストーリー」を語って(姉が統合失調症だったという)事実を塗り変えている気がしたので、急いで撮影したんです。まあ、人間は変わらないということなのだと思います。事実を認めてしまえば、自分の人生の3分の1ぐらいを否定することになりますから。
―― お父さんは現在98歳。映画の公開について何と言っていますか。
藤野 昨年、転んで骨折して入院中ですが、チラシなどを見て状況は分かっているようです。基本的に私がすることは賛成してくれる人でした。アイヌの人たちのドキュメンタリー映画を作っていると伝えた時も驚いていましたが、その後は応援してくれました。
―― 今、お姉さんに対してどんなことを思いますか。
藤野 亡くなってしまったので、姉にはもう何も届きません。姉のためにもっとうまくやれなかったのかと、申し訳ない気持ちになります。今できることは、同様の問題を未然に防ぐために自分の体験を伝えていくことだと思っています。受け入れがたい事実でも、認めないことには解決はできません。我が家はその“失敗例”でした。