モラルジレンマの往復

昨日、とある英文を読んでいたら「モラルジレンマ」(Moral Dilemma)という言葉に出会い、ハッとさせられた。

コロナ危機でイライラしたり、ギスギスしたりするのは、この「モラルジレンマ」があちこちで飛び交い、日ごとにブレる答えのせいじゃないか。


モラルジレンマとは

モラルジレンマとは、ある究極の二択を迫られた時、そもそもその二つの選択肢はどちらか一方を選んだり一方を捨てたりすることができないものなので、どちらかを選ぶということがそもそも間違っているというシチュエーションのもとで心に起こる葛藤を指します。

引用  https://mayonez.jp/topic/4879


私は、これを「良識的な判断のために起こる葛藤」と定義したい。良識的、または道徳的というのは、必ずしも、「利己的」「自己中心的」と反するコトバではない、ということが一つのポイントである。だからこそ、各状況下での判断の難しさや立場を取る難しさが生まれているのである。したがって、良識的か?道徳的か?と言うことをあらゆる立場で考えば考えるほど、本当にしたいことと正しいと思うことにズレが生じて、結果的に自身を苦しめてしまう。


私の身近なジレンマと私の答え

モラルジレンマと呼べるのか、その一歩手前の単なるジレンマなのかは自信がないが(特にケース1)、すぐに思い浮かんだケースが2つあった。

ケース1

「非常事態宣言直前に、閉館されると予想される場所へ行くのか」という状況。

静岡で開催される「きたれ バウハウス展」は開催が決まった一年以上前から楽しみにしていて、他県の開催状況をチェックしながら来静する足音を心待ちにしていた。4/16日(木曜日)の時点では、明日はお天気も崩れるし、人が少ないだろうと見込み、朝一で行こう、歩いてでも(片道6km)見てきてしまおうと思っていた。

さて、その木曜の夜に「政府は非常事態宣言を全国に出すでしょう」というニュース。今週末までには閉館が決まると予想される状況。

私は、一瞬迷った。

…前売り券も手にしていて、GW明けまでの閉館といえど、再開できるかは分からない。明日しか「チャンス」はない。

瞬時に、迷った自分に嫌悪感を抱いた。

どうせ休館になるならば、まず自分から先手を打って行くべきではないのだ。私自身、2月半ばからすでに人の移動によるコロナ拡散の恐怖を感じていたので、職業上の信用面もあり、終息するまでは大事な人には会わないと心に決めていたのだった。また、こんな危機の中でも働いてくださるスーパーの方やドラックストアの方に対しては頭の上がらない想いが常にあり、この感謝を伝える一番の方法は、出来るだけ頻度を減らして計画的にそこに行くことに尽きる、と考えていた。接触を極力減らすことがスタッフさんたちのリスクを減らすことに繋がると結論づけた。

それなのに、目先の都合を考えて一瞬でも迷ってしまった。ちがう、この場合に私がしたくないことはハッキリしている。それは「休館になると見込んで、ギリギリで行ってきた!」なんて得意げな気持ちになること。親でも友達でも人としてそんなことを口にするのも感じるのも嫌だと思い、そこまでして見た「バウハウス展」も否、と感じた。将来、そんな経験があるより、例え再開が見込めなかったとしても、幻のチケットとして大事に持っていようと決めた。

(↑これはモラルジレンマとは言えないかもしれない。しかし身近にある葛藤だと思うので書きました)


ケース2

今朝。明日は、東京に住む大切な友人の娘の一歳の誕生日だと気がついた。

会いに行けない分、何かプレゼントを贈ろうと思い、おうち時間が華やかになる「お花」がいいかな、コロナ終息後のお散歩に可愛いベビーキャップなんかも似合うかな、なんてスマホを操作し始めたとき

「都内の宅配のパンク状態と受け渡しの安全面」

についての情報が脳裏をよぎった。

東京方面への物資の混雑や、宅配業者とのやり取りにおけるリスク、乳児がいる家庭。。。

5分ほど悩んだ私は、今回はこう結論づけた。

こういう時こそ小さな喜びを届けたい。普段なら直接お祝いしに行くのだから、今は出来ないからこそ、その気持ちはコロナに負けないようにしたいと考え、プレゼントを贈ることにした。宅配業者さんには本当に感謝しかない。どれだけ遅れて届いてもいい、友人にも置き宅にしているか確認すれば大丈夫と思ったからである。こんなときだからこそ、友人として喜びを贈れる立場を取ろうと決めた。


未解決なモラルジレンマ

実は、今どんな立場を取ったらよいのか思考が揺れているケースが1つある。

それは「テイクアウトを促進するか否か」。

多くの店舗の存続を支えようとネットワークを駆使して、各地域、各コミュニティで支援情報の輪が広がっている。私も馴染みのお店がたくさんあり、コロナ危機を乗り越えてほしいと願うばかりだ。少しでも衛生面・安全面を考慮して、店内飲食はやめ、それよりも短時間の接触にすること、また入店せずに商品の受け渡しをするなど出来る限りの工夫をしながら、お店側もお客側も相互作用をし合っているのが現状である。

しかしながら、テイクアウトをするという行為は、感染拡散防止の対策として外出自粛とは反対に、外出を促す行為にも当たる。テイクアウトのための外出は不要不急に当たるのではないか、と考えると線引きは難しくなる。

また、それは「支援」として長続きするのだろうかという疑問もある。テイクアウトが出来る人は限られている上、一日に何食もお持ち帰りは出来ない。さらに、出来立てを売りにしているお店は味も劣るし、衛生的な不安もないことはない。お財布の紐を締め続ける生活の中、応援したいのに出来ないもどかしさ。一番恐れるのはやはり、お店で何かが起きてしまうこと。それは、お店の方の家族に留まらず、そのエリア全体の共倒れにも繋がってしまう。もし、それをしないこと=人助けの気持ちがないのかと自分を心のどこかで責めてしまう人もいる方がいれば、まず絶対にそんなことはない、と私は伝えたい。


「モラルジレンマ」について話を戻そう

目まぐるしく情報や状況が変化する毎日と、何も起こらずに済む一日一日にありがたみを感じる生活、逆にそれが不安になる生活、多種多様。

これまで当たり前だったことができず、多くの判断や工夫が強いられる中で相反する二つの意見に苦しむとき、ふと「モラルジレンマ」に苦しんでいるのではないかと、自分に声をかけてみるのもいいのかなと思う。それを認めるだけでもスッと心は楽になる。

その延長で、世の中の強すぎる正義感というものに、知らずして自分が苦しんでいると気がついたときには、「偽善なのかな」と責めず、人に迷惑をかけないことと行動に責任を持った上で(積極的に『しない』ことも今は立派な責任ある行動)、私はこうでありたいということを考え抜く。また、それを人に話して、反対の意見を聞いたなら、真ん中に戻ってゆっくり考え直し、一度物事に対して消極的な行動を貫くのも一つだと思う。


以上が、私が「モラルジレンマ」という言葉から得た気づきである。コロナ危機に慣れてきている今の空気が、再来週の感染状況の悪化に繋がらないよう願うばかりである。

モラルジレンマを学ぶ一番の目的は、多様な価値観を学ぶことに他ならないのです。よって、モラルジレンマの議論をしていても、善悪の峻別がつかない、という問題点が上がります。でも、そもそも多様な価値観を学ぶことと、善悪について学ぶことを同じテーブルで議論する必要はない。

https://mayonez.jp/topic/4879 より引用

こうした多様にある価値的判断によって、「正しいこと」はいくつも存在する。私たちはこうした正解値のない問題に対し、具体的な事実やデータを把握し、論理的に分析をし、客観的に対応法を考える。しかし、そうやって追いこんでいっても、切れ味よい答えがなかなか出てこない。それは、私たち個人が、「マルチロールな(複合的な役割を持つ)」人間だからだ。 
私たちはマルチロールな(複合的な役割の)存在である。もし、モノロールな(単一的な役割の)存在であれば、物事の思考はラクになる。が、その分、判断も経験も人生も薄っぺらになるだろう。幸いなるかな、私たちは多重的に複雑な役割を担った存在である。そのときに大事なことは、「自分は何者であるか/ありたいか」の主観的意志を持つことである。ただ、この主観的意志は客観を超えたところの主観である。世阿弥が言うところの「我見」ではなく「離見の見」である。

  この方は、理想の問いの答えをこう説いている。

現実の自分を高台から見つめる「もう一人の自分」をつくれ
この「組織人格」と「個人人格」の葛藤を超えて答えを出すためにどうすればよいのか。それには、高台から現実の自分を見つめる「もう一人の自分」をつくることだ。その「もう一人の自分」は、単なる客観を超えたところで、「自分は何者であるか/ありたいか」という根源的な主観を持っている存在である。モラルジレンマに遭遇したとき、その彼(彼女)が現実の自分を導いていく───これが最善の形である。

全て https://globis.jp/article/1029 より引用


静水庭🌿








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