ベルギー留学:ワンピース
1.
ある日の夕方、母から電話がかかってきた。
「今度帰って来たら、留学に必要なもの、少しずつ揃えないとね。」
当時の私はインターンのために実家から離れて暮らしていて、日々の仕事に加えて処理しなければならない留学の書類手続きに追われていた。
5年間憧れ続けた正規留学の夢。しかし、ベルギーの大学からオファーが届いてからしばらく経っても、なかなか実感が湧かなかった。なにせ、唯一自分が留学することを証明するものは、目の前にある書類の山だけなのだ。「本当に3か月後、ヨーロッパの地に降り立っているのかしら?」
そう自問する毎日。
だから電話から聞こえる母の言葉に「あぁ、確かに、そうだよね、そうだった」と私は浮いた声で頷いた。そして私は、映画に出てきそうなヨーロッパ風のワンピースを着て、ベルギーの風に裾を揺らしながら歩く自分の姿を想像しようとした。
2.
私と母は地下鉄に揺られながら札幌・大通りに向かった。「一人でも買いに行けるよ」と言う私に、母は「あら、一緒に行こうよ」と付いてきた。近所に一緒に買い物に行くことはあっても、人混みが苦手な母がわざわざ街中まで出てくることは珍しかった。
買った洋服や消耗品の袋をぶら下げて、せわしなく人が行き交う地下歩行空間を歩いていた私は、あるお店の前で足を止めた。決して甘すぎないスタイルに、生地やデザインに女性らしい遊び心を散りばめた商品が並ぶ、お気に入りの洋服店。
「ねぇ、あのワンピース、シズホにぴったりじゃない?」
母はお店の入り口を指しながら私の方を振り向いた。えっどのワンピース?と目で探していると、母が商品棚に近づいて一つのワンピースを手に取った。
小さな赤いお花がちりばめられた、鮮やかなエメラルドの、シンプルなワンピース。
「うん、絶対似合うよ。ほら、試着してみて。」
とても軽くて、私が動くたびに風のように踊るワンピース。これを着てどの町を歩こうかな、誰と会おうかな、と想像が膨らみそうなワンピース。私も鏡に映る自分の姿を見て、すぐに気に入ってしまった。
「でもこのワンピースは、ぜったい高い」と考えながらちらっと値札を見てみた。
ほらね、やっぱり高い。
買うか、諦めるか…
迷いながら試着室を出た私に、母は嬉しそうに「これ、シズホに買ってあげる」と言った。いつも「いいものを安く買う」ことをモットーにしている母には予想外の言葉だった。「えぇ、どうして!?」と驚く私に、母は言った。
「だって、留学に行けばシズホとお買い物することもなくなるでしょう。こうやってお洋服を買ってあげられることも、残り僅かかもしれないじゃない。」
そう呟く母の横顔に一瞬寂しそうな影を見たとき、私は「本当に留学するんだな」と初めて実感した。