見出し画像

旅するトレーナー in 大峯奥駆道

奈良県の吉野〜熊野を結ぶ修験者の修行の道を7日間かけて歩きました。
この道は、1300年の伝統をもつ山岳信仰の聖なる道ということで、
思う存分、「自然」と「自分」と向き合う時間になりました。


今回の旅のきっかけ

今回の旅に行く前は大峯奥駆道のことは知りませんでした。
誘って頂いた方から話を聞いた時、その歴史と自然の奥深さに魅力を感じたのと、過酷な道ということで自分と向き合い自然と身体の探究をするのに絶好の機会だと思い同行させて頂くことになりました。

今その瞬間を見て感じる

今回の旅ではスマホを見たり写真を撮ることをやめていました。
(写真はガイドさんが撮ってくれました)

いつも旅に行ってきれいな景色などを見た時、写真を撮ることに夢中になってしまうので、できるだけその瞬間を自分の目で見て自分の感情を味わいたいと思ったからです。

「この景色は写真を撮らなきゃもったいない」
「人に見せたい」

など思ってしまうと、今その瞬間を疎かにしてしまいます。
スマホ越しに見る景色と自分の目で見る景色はぜんぜん違います。
山の頂上で雄大な景色を目で見た感動や、肌で受ける風の感触、崖から下を見下ろした時の恐怖心など、その場では様々な感情や五感が働きます。それは写真で伝わらない部分であり、自分の体感として刻まれる生きた体験になります。


五感を働かせて今を生きる

奥駈道は、危険なポイントが多々ありました。
断崖絶壁の淵を歩いたり、岩場を鎖や木の根を頼りに登ったり、雨で濡れた滑りやすい道を下ったり。

一瞬も気を抜けない死と隣り合わせの瞬間。

恐怖を感じ、心拍数が高まり、身体は緊張で強張ります。

その瞬間は余計なことを考えてられません。
五感をフル活用し、過去や未来ではなく今に集中しています。

野生動物や原始時代の人間は外敵から身を守るために常にこういう状態だったのだと思います。
恐怖心や不安という脳の生命維持のための防御反応は本来危機的状況が起きている今その瞬間に働くものであるはずです。
今実際に起きていない未来に不安を感じるのは現代人特有のものなのだと思います。

もちろん危険な場所に行く必要はありませんが、舗装されたコンクリートの上だけではなく、たまにはハイキングなどで舗装されていない地面を歩き五感を働かせて今を生きる感覚を感じてみることが大切だと思いました。

木の生命力

山の中には色々なかたちの木がありました。
くねくね曲がっている木。
岩の崖っぷちに根を張りこらえている木。
折れた木の幹からまた新たに生えている木。
台風などの影響を受けながらも上手く適応しながら生きていました。
木の生命力はすごい。
木はただ生きるという目的のためにそこに生きています。
現代人は資本主義社会において目的が複雑化しているため、本来の生命力が鈍っているのではないかと思います。

木以外にも苔やキノコなど自然豊かな深い森の中の生き物たちはみんな生き生きとしていました。


旅の相棒

初日は身体がまだ慣れていなかったのと、直射日光がきつかったせいで登りがきつく感じました。
他の方はストックを持参してましたが、僕は持っていなかったので落ちていた木の枝を使いました。
ちょうど良い太さの木の枝を見つけて、握った瞬間とても手に馴染んで心地よかったのでこの枝を使わせてもらうことにしました。
最初は初日の登りだけ使おうと思ってましたが使っているうちにどんどん愛着が湧き、持っていると支えてくれている感じで安心感があったので2日目以降も共に行くことにしました。

そして、4日目の夜。
暗い森の中を歩いている時、ふと他のことを考えていたら、足元が悪いところで足をすべらしてしまいました。
その時、枝に全体重が乗って枝が折れてしまいました。
枝が衝撃を吸収してくれたおかげで、地面に身体を打ちつけることはなかったですが、4日間旅を共にしてきた枝が折れてしまったのはショックでした。
しかし、この相棒は最後に助けてくれたのだと思い、感謝してお別れしました。

翌日からは別の枝を使おうと思いましたが、
「ここからは自分の足で歩きな」と言われている気がしたので、残りの3日間は自分の足で歩くことにしました。

今まで支えてくれていた枝がない分、姿勢と自分の身体をより効率的に動かそうとする意識が強まり、身体に負担がかからない歩き方の探究が始まりました。

歩き方、身体の使い方のバリエーション

どうすれば身体に負担なくスムーズに動けるか模索していたところ、ガイドさんの歩き方がとても参考になりました。
ガイドさんの歩き方は、力みなく一定のペースなのにスイスイ進む感じでした。

・歩幅は狭く等間隔で一定のペース
・着地が静かで柔らかい
・体幹が、ブレない
・登り、下り、平地どんな場所でも、姿勢や動きが乱れない。

以上を参考にして自分なりの歩きやすい動き方を色々と実践しました。

登り方
①足首の可動を使ってやや前傾姿勢
②上半身脱力
③歩幅狭く等間隔
④土をいたわるように優しく着地する

④は特に重要であり効果的でした。
着地の仕方がそのまま自分に返ってくる感じです。
ドタバタとしたり強く踏み締めると、関節に負担がかかったり、筋肉主体で動くことになるため疲れやすい。
しかし、優しく着地すると筋肉ではなく関節の可動主体で動けるため負担なく楽に動けました。
地面を見て、「ここにはたくさんの虫や菌が生きているんだよな」と思うと自然と着地が優しくなりました。
この感じで登っていると、とても心地よい感覚になりました。

下り方
①上半身、下半身脱力
 (脱力することで使える関節が増えて、身体をコントロールしやすくなる)
②足首の可動を使って動きをコントロール
③着地後立方骨に重心を乗せると安定する 

下りは特に動きの引き出しの多さが大切でした。
落ち葉で滑りやすかったり、木の根っこが張り巡らされていたり、岩がゴツゴツしていたり、目で見て瞬時に足を着く場所を決め、その場に適した動きのアイデアを引き出して下って行きました。

自然の環境に適応しながら動きを引き出していく。
この感覚こそ人間らしさであり、自然の中でこそ人間本来の力は引き出されるのだと実感しました。


人間の適応力 

1日目は登りがきつく感じました。心拍数は100以上でした。
7日目は登りが心地良く感じるようになりました。心拍数は70前後に落ち着いていました。

7日間歩き続けている間に、自然と疲れにくい楽な歩き方を脳と身体が学習していきました。
最初は重いと感じていた10kgくらいの重さのリュックも支えどころがわかって重さを感じなくなりました。

また、朝靄で霞んでいた景色や夜の森の中では最初は見えづらかったけど、目が慣れてくると遠くの山々が見えるようになったり、暗い森の中でも周りが見えるようになってきました。
昼夜明るいところで暮らしていて、遠くを見る機会が少ない現代の生活では見る力も衰えているのだと思いました。

「重い」「長時間歩くのはきつい」「見えづらい」は思い込みであり、便利な世の中で使わなくなっているだけで人間本来の力は僕たちが思っている以上にすごいものだと感じました。
また、その人間本来の力や適応力は自然の中でこそ働くのだと思いました。

人間本来の移動能力

縦走は歩いた道のりを目で見れるからおもしろい。

いくつかの山を越えて見晴らしの良い場所から山並みを眺めると、あの山からここまで歩いて来たのだと実感できます。

それと同時に人間の移動能力はすごいなと思いました。

現代では車や電車など移動がとても便利で快適であるけど、人間本来の移動能力は衰えています。

移動がすべて歩きだった昔の人と距離の感覚もだいぶ違うのだと思います。

現代の僕たちは、徒歩30分でも遠いと感じてしまう。

今回の7日間の旅は、最長で1日15時間歩きました。
山道どころか平地でもそんなに長い時間歩いたことがなかったので、心配もあったし自分がどこまでできるのか未知でした。

でも、最後まで歩けました。

原始時代に直立二足歩行になって、長距離の移動を可能にした人間にとって歩くことは一番の強みであり、身体の構造も移動できるように構成されているので、移動する機会を失ったらその本来の構造は崩れてあらゆる不調が引き起こされるのだと身を持って体感できました。
人間は自然の中を歩いてこそ、本来の心身の健康を維持できるのだと思います。


自然への回帰

帰りにガイドさんと話していて、
「みんながもっと気軽に楽しく山に行けるようになると良い」「USJか山か、という選択肢になったらいいな。」と言っていました。

昔の人々は山と共生して、山の資源や恩恵を上手に使って暮らしていました。
また、限られたコミュニティの中で自分のやることも明確だったのではないかと思います。

現代は、SNSによってコミュニティの領域がものすごく広くなっているので比較対象が多く、情報過多の中で自分に本当に必要な情報を選択することが難しくなっており、自分は何者か?何をやれば良いか?迷いやすくなっています。

そんな時は、情報をシャットダウンして登山やハイキングなど自然の中に身を置いてみると人間の本質を感じられると思います。

どこまでテクノロジーが進化しようと、人間は自然の一部であるということは絶対的な事実です。自然の仕組みがないと人間は生きていけません。

地球の環境問題や、現代人の生活習慣病、慢性痛、メンタル不調など、何かがおかしくなっている現代において自然への原点回帰はこれからますます必要になってくるのではないかと思います。


修験道、利他の精神

奥駈道を歩いていると古来の修験者たちの修行の場がいくつもありました。その中には断崖絶壁を命綱なしでよじ登ったり、現代では考えられないような内容のものがいくつもありました。修行中に亡くなられた方も多いとのことです。
それを聞いて「死ぬかもしれない状況の中で、一体何のためにそこまで修行するのだろう?」という疑問が浮かびました。

修験道は、日本古来の山岳信仰に仏教や神道などが融合した日本独自のものであり、修験者は山で修行することで自然と一体となり霊力や人間力を高め、その得た力を里におりて人々の救済のために使うそうです。
霊力とは修行で得た超自然的な能力「験力」という功徳のしるしだそうです。

まさに利他の精神です。

利他とは、自分のことよりも他人のために尽くすこと。

「これは、自己犠牲ではないのか?」

自分は何者か?自分に何ができるのか?それは何もしていなかったらいつまで経ってもわからない。それは体験を繰り返すことで見えてくる。
何もしていなかったら人の為になり得ないから偽善となるのかもしれない。
そうなると、人のために何かするという時に自分を犠牲にするしかなくなってしまうのだろうか?
と、色々と考えを巡らせていました。

しかし、色々調べてみると修験道は利他の精神だけではなく、
まず、山で修行することが自分の人間力を高めることになるので、それが自利となるとのことです。

修験道が目指す究極の世界とは、「自利利他円満」。

山で修行することが自分の人間力を高め自利となる。
そして、その力は持っているだけでは意味をなさない。
使ってこそそれは価値のあるものとなる。
人のために活かすところまでが修行なのだ。

このことを知って、パーソナルトレーナーである自分も自利利他円満の精神を大切にしようと思いました。

修行とは言えないけど、僕は山の中で遊ぶことが大好きです。
木登りしたり、岩をよじ登ったり、土の感触を感じながら歩いたり、自然の移り変わる表情を見たり、山の中は多様な動き方・身体の使い方と多様な感覚や感情が引き出されて、たくさんの気づきや発見があります。
3年前まで都会に住んでいて自然に触れていなかった僕は、久しぶりに山に行った時に「五感が殺されている」と思って自然のある鎌倉に拠点を移し、日々自然の中で遊ぶように身体を動かしていたら漲る心身の充実感を感じられて本来の自分のあるべき姿を取り戻せました。

パーソナルトレーナーとして、この体験で得たことを自利利他円満の精神で必要としている人に届けていきたいと思います。


旅の終着、人の縁

旅の終わりが近づいた時、「やっと終わる」という気持ちと「終わってほしくない」という寂しい気持ちがありました。
こんなに長い時間、自然の中で過ごせて歴史ある道を歩けたことは貴重な経験となりました。
最後にみんなで川を渡り、終着点の熊野大社に着いた時、ものすごい達成感とともに感慨深い気持ちになりました。

この7日間の旅は、一人では絶対に歩けませんでした。
道を冷静に的確に案内して頂いたガイドさん。
道中、食料や荷物を運んで頂いたサポートの方。
宿坊や山小屋の方々。
そして励まし合い一緒に歩いた仲間たち。

「人の縁に心から感謝」


最後に、もうひとつ縁を感じたことがありました。
道中、山頂から7月の旅で行った下北山村の池原ダムが見えました。
7月にいた場所を山の上から眺めていることに縁を感じました。

旅が終わったあと、下北山村でお世話になった方に連絡して池原ダムが見えたことや旅の体験について話しました。

また、今回の旅のサポートをして下さった方は上北山村に住んでいるとのことで、
来年の4月に下北山村と上北山村に行くことにしました。

旅によって人との縁が繋がっていきます。

人との出会いに感謝して、この縁をこれからも大切に繋いでいきたいと思います。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?