見出し画像

(7) 如理作為具足(Yonisomanasikāra-sampadā)

ポー・オー・パユットー師の「仏法の思考と実践」を読みつつ、noteに書いています。
今日は仏道という旅に必要な7つの資具のうち、最後の7つ目、如理作為具足です。

この具足シリーズ最後です。手を出してしまったからですね〜最後まで頑張りましょう〜あ、正精進〜🙏😂

引用です。

(7) 如理作為具足(Yonisomanasikāra-sampadā)

 如理作意を備える、あるいは如理作意を完全に創造することです。
 如理作意は心の中で理にかなったことをする、理にかなった考察を知ることです。新しい時代の言葉で言えば、考えることを知る、考えることで、特に一切のものを因縁のままに考察することです。
 もし、私たちが見具足すれば、一切のものを因縁のままに見る態度を持つでしょう。如理作意を用いることが希望できます。そして如理作意を用いることができれば、私たちは見具足の中でますます修習します。
 本当はこれらの原理はすべて関係しています。何かが一つ生じると、他のものも関連して生じさせます。だから、第三項目の志欲具足の原理に従って正しいモチベーションがあるときは、因縁を考察し求めることを刺激し、最後の項目である如理作意に繋ぎます。
 第一項目の善友ですら、この如理作意と密接に関係します。例を挙げると、善友を選んで求めることを知ることは、子供にテレビの番組を選んで見ることを教え、役に立つ本を選んで読むことを教えます。それからは、この如理作意がさらに深いところまで連れて行きます。子供に見ることを教え、読むことを教え、見たものから役に立つ内容を熟考することを教えます。如理作意を持てば、一切のことを熟考しながら見て、その因縁はどうか、そのものの要因はどうか分析して見ます。一切のものを功罪はどうか、どうしたら解決するか、何か役に立てるものはないか、など如実に見ます。
 社会の中に生きる者も、あるいは自分だけでいる者も、あるいは何か法を実践する者も、一切のものを正しく考え考察して心を作ることを知り、受けた体験、生じた出来事、遭遇した状況を、生きることに悪を生じさせずに善法を生じさせ、善の感情を生じさせ、正しい方法で解決する智慧を生じさせ、世と生命、あるいは一切の行がどのような三相の状態を持つかを如実に知り覚知して、証得した知識で解脱して自由にすっきりと楽しい清らかな心を持つ方向で、考察することを知らなければなりません。これらすべては、一切が如理作意のことです。第七項目の原理であるこの如理作意は他でも多く語られていますから、さらに繰り返す必要はないでしょう。
 法の実践の前兆、あるいは学習の曙光は七項目あるということです。
学習においてはこれら七項目に重点を置きます。
 これらの七項目が生じたとき、学習は間違いなく生じます。喩えれば、まるで虹の七色の要素であるすべての七色の光が溶け合って、夜明けの光として暗黒を脱し暗闇を消して、世を照らすようなものです。
 学習そのものは正見に始まります。それは慧の始まりの明るさです。道に入ったということです。
 私たちが道に沿って歩むとき、つまり学習するとき、学習は戒、定、慧の三つの要素からなります。これが正見から正定まで、八つに分かれます。しかし、道と学習の前兆は何でしょうか? 忘れないでください。
 ここにきて、疑問を持たれる方もあるでしょうから質問を入れておきましょう。七項目の前兆である法の原理は道の中にはないのでしょうか? この戒のように道の中にはないのでしょうか?
 いいえ、この七項目の原理は本当は道の中にちゃんとあります。しかし、別に掲げる理由があるのです、というのが回答です。
 比喩をさせていただくと、医者、比丘、教師について話すのと同様です。これらの人は支援の徳を持ち社会と住民の利益となる人たちですが、
彼らが住民ではないのかと訊ねれば、住民ですよと答えるでしょう。でも特別の理由があって分けて呼んでいますね。
 このことも同様です。七項目の原理は道の中に含まれています。でも、もう一つの特別な義務を果たすことについて分けておきます。医者、比
丘、教師が一般の人と同じように住民であっても、場合によっては住民に奉仕する色々な人として住民から分けて話すのと同様な意味において
です。
 警官、軍人、役人、住民という言葉も同様です。どうしてそのように分けるのか疑問を持たれる方もおられるでしょう。どうして警官、軍人、
役人は一般の住民ではないのか? 同様です。ある意味、目的のために分けて話します。これも同様です。
 これで、私たちは七項目の前兆について全部話しました。
 法を実践する者は両親と家にいる子供、学校で教師と共にいる生徒、色々な機関や役所で働いている人から心修習をしている人、離れた場所にある森の中で観修習をしている人、あるいはどこかで観修習している人でも、これらの七つの前兆を創造し常に身に付けて、自分の持つ人間としての潜在能力を修習によって完全に成就するまで、その後の法の実践に前進する保証としなければなりません。
ポー・オー・パユットー「仏法の思考と実践」

「本当はこれらの原理はすべて関係しています。何かが一つ生じると、他のものも関連して生じさせます。だから、第三項目の志欲具足の原理に従って正しいモチベーションがあるときは、因縁を考察し求めることを刺激し、最後の項目である如理作意に繋ぎます。」

見具足や志欲具足、善友性など、今まで書いてきました1〜6までのこれらの原理は全て関係しているんですね。

最近、日常生活が忙しくなってきて、そうなってくるとSatiが働きにくくなってきて、だんだんと修行のモチベーションが低下していったり。
でもそういう毎日の日常を勇気を持って全体的な観察だけは続けます。そんな自分自身を見守る感覚です。
こういう時こそ、仏道の力が試されると言いますか?
日常に自分の思い通りにできないことがあればあるほどに、それをしっかり観察すると心は落ち着いていきます。
思い通りにいかない現実と向き合うと、いつも思い通りにしたいとコントロールしようとする心を発見します。そしてそんな心にただ気づいていくと、、
そのようなものであると知ることができるからでしょうかね、落ち着くしかない。そのようにも感じます。

一つのものが他を支援する。八正道もそうですね。
普段は、正念を意識しているんですけど、それが難しいなというときは、他のものをチェックしてみて、例えば、正語を意識してみる。とかですね。今この場でできることをやってみるんですね。
どれもなかなか難しいなという時も、忍耐の時。何もできない、ということは、たぶんないんじゃないかな。
生きている限り身体と呼吸はいつもそこに共にありますしね😊

そのように修行を継続していくんですね。するとまた状況も心も変化していきます。そのような変化もまたただ観察していくんですね。

大変ですよね、在家の修行者は。
だからできるだけ、戒律で自己を守ることが大切ですね。
そして善友。ご法話を聞くことや、修行仲間との交流で、勇気やエネルギーを分けてもらえますね😊

現在置かれている状況での私ができること、これを実践して生きていきます🙏😊

如理作為(Yonisomanasikāra)

如理作為の説明をしてみようと思います〜。
私がこの法に出会ったのは、つい1年ほど前のことです。それまでにも、聞いたことがあったりはしていたと思うのですが、、パユットー師の仏法の本も10年くらい本棚で静かに眠っていたので、本当に仏法と出会うということは、難しいことなんだなと(笑)思ってしまいます。

パユットー師の仏教辞典より引用させていただきます。

[2] 如理作意(Yonisomanasikāra : reasoned attention; systematic attention; analytical
thinking; critical reflection; thinking in terms of specific conditionality; thinking by way of casual relations or by way of problem-solving):
正しい方法で思考する。すなわち心の中で理にかなった考え方をして、一切のものを発端まで思考、考察して見て、ずっと理由を探り、体系的、方法的な慧で分析し、熟考して、そのもの、その問題を因縁の状態と関係に従って見る。この項は内部要因であり(internal factor; personal factor)、慧の側にある(a factor belonging to the category of insight or wisdom).
「比丘たちよ。太陽が昇るとき、前兆として夜明けの光が見えるごとく、如理作意を具えることは、比丘たちにとって八支聖道を生じる案内者であり前兆である」
「いまだに修行すべき有学人(Sekha) の比丘にとって、われらは『善友』ほど有益な内部要因は見ることが出来ない。如理作意があるものは、不善(Akusala)を捨離し(Kusala)を習得することが出来る」
「われらは、如理作意ほどまだ生じない正見(Sammā-diṭṭhi)を生じさせ、生じた正見を発展させるものは見ない」
「われらは、如理作意ほどまだ生じない疑問を生じさせず、生じた疑問を解消する、その他の法はまったく知らない」
「不放逸は正法(Saddhamma)をしかと維持し、衰えさせず消失させないために、大いなる益がある」
ある面において、この如理作意と同様に称讃されている他の法としては、
不放逸(Appamāda:carnestness; diligence)、
発勤精進(Viriyārambha: instigation of energy; energetic effort)、
小欲(Appicchata:fewness of wishes; paucity of selfish desire)、
知足 (Santuṭṭhi: contentment)、
正知(Sampajañña: awareness; full comprehension)、
善奉仕 (Kusaladhammānu-yoga:pursuit of wholesome states;devotion to good things)、
戒具足(Sīlā-sampadā:possession of virtue)、
志欲具足(Chanda-sampadā:possession of will)、
自己具足(Atta-sampadā:self-realization; self-actualization)、
見具足(Diṭṭhi-sampadā: possession of right view)
不放逸具足(Appamāda-sampadā:possession of earnestness)がある。

(第16巻上相応部大篇142-90頁;第17巻増支部一集16-46頁;第23巻如是語経253頁)
ポー・オー・パユットー「仏教辞典《仏法篇》」

【注意:上記引用文章の『善友』のところ】
「われらは『善友』ほど有益な内部要因は見ることが出来ない。」の所。
仏教辞典には善友と書かれていましたので、そのまま善友と引用しましたが、内容的には如理作為が正しいであろうと思います。如理作為のことを説明されていますからですね😅

さて。

如理作為と同様に称賛されている他の法が書いてありますが、具足がほぼ全部並んでいますね。
自己具足とありますが、これは以前書きました我具足のことですね。

「正しい方法で思考する。すなわち心の中で理にかなった考え方をして、一切のものを発端まで思考、考察して見て、ずっと理由を探り、体系的、方法的な慧で分析し、熟考して、そのもの、その問題を因縁の状態と関係に従って見る。この項は内部要因であり(internal factor; personal factor)、慧の側にある(a factor belonging to the category of insight or wisdom).」

その問題を因縁の状態と関係に従って見る。
これは如理作為と思います。如理作為は、内部要因です。

パユットー師の「仏教辞典《仏法篇》」では、善友性、如理作為、不放逸、この3つが一法とされ、一番最初に書かれてあります。

実際、私自身が日常的に実践していることも、この3つにおさまっちゃうかも。
ご法話を聞き(善友)
理にかなう思考、熟考、因縁に従って見ることを心がけ(如理作為)
常に気づきを心がけ精進する(不放逸)

如理作為は、内部要因で、難しいところですね。

自分自身がしっかり理解していることであれば、思考しなくてもそれが真実だと知ることがすぐできると思います。
でも、そうだろうとか、理解が深まっていないことだったりすると、少し考える必要があったりします。

noteに書いてもいいことなのか?書かない方がいいことなのか?
これは正しいことか?そうでないのか?
善か悪か、などなど、けっこう熟考します。
そしてそれを書くことによる影響を考えたりします。
影響を考えないといけない時は、あまり書かない方がいいことが多いですね。
そんなこと考えてたら何にも書けなくなっちゃうな〜と思うこともあるのですが、、
読みたいと思ってくださる方に読んでいただけて、お役に立つことがあれば幸いです。という結論になると投稿しますし、これを誰かが読むことでの悪影響がありそうだな〜、なんて結論になると記事を削除します。
そしてまさにこういうことは自分自身の修行となります。
失敗ももちろんしますが、実はそれが一番学びになったりします😂🙏
結局、何度も何度も学ぶんです。

因縁を見る

「如理作意を持てば、一切のことを熟考しながら見て、その因縁はどうか、そのものの要因はどうか分析して見ます。一切のものを功罪はどうか、どうしたら解決するか、何か役に立てるものはないか、など如実に見ます。」

因縁を見るって、難しいことだと思います。
時々、人が理解していないことを私がすんなり理解できていることや、その反対に自分が理解できていないことを人がすんなり理解できていることがあります。

これって何でしょうか?

たぶん、歩んできている道が異なるので、物事の理解度のそれぞれの違いかな〜と思います。
皆様はどう思われますか?

因縁と言っても、一つの原因に一つの縁、でもないですし、そこに一つの結果、でもないですよね。。
ですけど、その結果がまた次の原因となり縁となり、、そこにはそのような法則があって、終わることなく続いていく。
こういうところに縁起とか輪廻を感じちゃいます。

この因縁の法則って、仏教を学び始めてだいぶ経ってもよく理解できませんでした。
今はなんとなく理解できていっている気がしますが、、気がするだけかもですが😂

たぶん、難しい。簡単なようで難しいところかな〜と思っています。

で、如理作為って?😂

「社会の中に生きる者も、あるいは自分だけでいる者も、あるいは何か法を実践する者も、一切のものを正しく考え考察して心を作ることを知り、受けた体験、生じた出来事、遭遇した状況を、生きることに悪を生じさせずに善法を生じさせ、善の感情を生じさせ、正しい方法で解決する智慧を生じさせ、世と生命、あるいは一切の行がどのような三相の状態を持つかを如実に知り覚知して、証得した知識で解脱して自由にすっきりと楽しい清らかな心を持つ方向で、考察することを知らなければなりません。」

如理作為の現実であり、理想的な結果であると思います。

でも、いつもこのような善心とはいかないものです。
なぜそのようにいかないのか?
一言で言っちゃえば自己中心的な心だからですけど😂
ここを自分自身で、探究していくことが大事だと思っています。
ただ、ここでやりがちなのは、
私の意見
私の感情
私が正しい
というこの「私」から始まる思考で考えることかなあと思いました。
如理作為は、「私」の思考ではないんだと思います。

例えば自宅が火事になった時。
私、からしたら不幸な出来事です。
では、如理作為であれば?どのように捉えるのでしょうか?
たぶん、今、やるべきことをするのみかなあと思います。
感情ではなく、理性で対処することを知る。
スマナサーラ長老がいつも仰られていることですね🙏

でも感情が、ついていけないことがあるでしょうと思います。
実際、災害等で家を無くしたり、家族を失った時、その物事をどう捉えて、どう生きていくのか、ということにも繋がりますね。

善友性
戒具足
志欲具足
我具足
見具足
不放逸具足
如理作為具足


わかんないですけど、修行としては、この七つを常にチェックしつつ、観察していくのかな〜と。
ご法話を聞いているか?
戒を備えているか?
志欲はどうか?(私欲はどうか😂?)
自己実現しているか?
見はどうか?真実を見ようとしているか?
気づきはどうか?注意深くあるか?
理にかなった思考をしているか?
全てが完璧であるはずもないので、ちょっとここが足りないなあとか?自分ができそうなところに、ちょっと重点的に取り組んでみるとか?
この七つのキーワードで、仏道修行していく中で色々工夫できると言いますか。
このそれぞれの視点から自身を観察してみると面白いよな〜とか。
そのように使ってみるといいんじゃないかな〜なんて思いました。
適当です😂🙏

参考までに。

いやあ、手を出してしまった頃はやる気満々だったのに、アップアップですよね。
無常です😂🙏

先日読ませていただきました、このnoteよかったですので、有料ですが、よろしければ読んでみてください。


さてさて、また書きたくなったら普通に書くと思いますが、日常が忙しくなってきましたから、もしかしたらあまり書かなくなるかもしれないな〜とも感じています。
確実に書く頻度は減ってはいますしね。

とかってまたすぐに書いちゃうかもですけど🤣
無常ですからね😂🙏

これからもよろしければ、時々お付き合いくださいませ😊🙇‍♀️

皆様が安穏でお幸せでありますように

生きとし生けるものが幸せでありますように

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?