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(5)見具足(Diṭṭhi-sampadā)

ポー・オー・パユットー師の「仏法の思考と実践」を読みつつ、noteに書いています。
今日は仏道という旅に必要な7つの資具、5つ目の「見具足」です。

どうもご無沙汰しておりました。
見。ですね〜😊 英語だとview。みたいです。

「見とは見解、価値観、意見、様々なものに対する人の態度です。」

結局ここに尽きる気がしています。
私たちは物事を、どう見ているでしょうか。
自分の見ている景色はどのようなものですか?
自分が見ていることをそれが正しいと思い込んでいること、believe信じている、とも聞いたような。。
仏道の実践としては、自分が物事をどう見ているか、どう捉えているのか、と気づいていくかな。
そして正見(Sammar-Diṭṭhi)。
真実に基づいて見ているか、真実を見ているのかと観ていく。かな〜。
偏った見方をしていないか、とも観ますかね〜。
そして何より、見解への執着。
やっぱり心の態度なんだなあと思います。

世界を見ると色んな紛争ありますね。身近な事柄を見ても意見の相違はありますしね。
なぜ、意見の相違があるんでしょうか。
あるに決まってる、でしょうか?

これは人それぞれの見解、見方が違うことから起こりますね。きっと見解が違うだけなら喧嘩することもないんですけど、その見解が正しいと主張していくところから(執着しているところから)喧嘩が始まるんだと思います。
差別、にも繋がっていくと思いますが、ここはちょっとそこには触れずに書いていこうと思います。

(5) 見具足 (Diṭṭhi-sampadā)
 見を完全にする、あるいは見を完全創造するということです。
 見とは何でしょうか? 見とは見解、価値観、意見、様々なものに対する人の態度です。心の対応、あるいは見解、価値観は学習において非常に重要です。ブッダは正しい見解、考え方、価値観を持つべきだと教えられました。学習においてなすべき一つのことは、見解と価値観を開発することです。これが見具足と呼ばれます。
 ブッダが初歩の正見とみなす他の何よりも強調される重要な見解と価値観は、一切のものを因縁のあるがままに見ることです。これが一切のものを如実に見るための、世間を見る重要な見解です。私たちの子供はこのように世間や人生を見ているでしょうか?
 この一組の原理は、本当のことを言えば、すべてに関係しています。
創造や知りたいという熱望のモチベーションも、もし、私たちに一切のものを因縁の関係のままに見る見方があれば、私たちの真実を知りたい、理解したいことを支援してくれ、一切のものの因縁を探ることの助けとなります。というのはこの一切のものの真実を理解することは、因縁を探らなければならないからです。
 一つの重要な真実の原理は、因縁のままにあるということです。仏教は、因縁のままの原理を説きます。最初に持つべき世に対する人間の見解、あるいは態度は、一切のものを関係するものとして、あるいは因縁のままに見ることで、この見解を持つように訓練する努力が必要です。その他の望ましい態度、見解、価値観などはその後ついてきます。生産に対する価値観などです。
 私たちが一切のものを如実に見る、因縁のままに見ることを知ると、それは創造を奨励します。というのは因縁を見ることは、様々なものの生起の過程と一切のものの関係を見ることだからです。
 因縁を探る方向で見ることは、真実を知りたいことと、善を創造して生み出すことを奨励します。因縁の過程を学び知ることで、何かが生起する状態を見せてくれ、生じたものがさらにどのように善果、あるいは悪果を起す因縁となるか、また、善なるものの生起を見たくなり、その因縁の過程の真実を知りたくなるからです。
 逆に知りたい、創造したいという熱望は因縁を見ることを奨励します。というのは子供が何かをしたい、何かを創造したいときは、この物がどうして生じたのか、それを創造するためには、彼の行わなければならない因縁、要素はどういうものか、その因縁を学ばねばならないからです。
 少なくとも世の中、社会の中で生きていく者が何かを行い、何かの法を実践して、自分や他人の成功や失敗、繁栄や破滅を因縁のままに見ようとする見解があれば、ただ何となくあの人やこの人、あれやこれやを責めてばかりいないで、きちんと調べて考察し、正しい因縁に沿って解決して防ぐか、あるいは支援していきます。
 そのほかに因縁のままに見る態度は、後でお話しする最後の項を支援します。如理作意によって、因縁を考え考察して探ることを教えてくれます。したがって、五番目の見具足の正しい見解と価値観を奨励、あるいは創造させます。
ポー・オー・パユットー 「仏法の思考と実践」

一切のものを因縁のあるがままに見ること

ホームさんの仏法講座でも先月に正見のところを学習しました。

あるがままに見る

皆様はこれって、どういうことだと思いますか?

世間でもよく聞かれる言葉かもしれませんね。
仏教独特と言えば、

一切のものを因縁のあるがまま見る

となると思います。

全ては因縁によって生じたもので、必ず滅していくもの。
それは何か不変で完全で留まっているということはない。
これだと言える実体のあるものはなく、常に変化していて、満足できるものはない。
このようなことが因縁のあるがままに見た感じだとは思うのですが、自身の普段の生活を見てみますと、大抵は人、物、出来事としてものごとを捉えて反応し、思い通りにコントロールしたいと考えて対処していると感じます。
それが、いけない、ということではありません。

「因縁を探る方向で見ることは、真実を知りたいことと、善を創造して生み出すことを奨励します。因縁の過程を学び知ることで、何かが生起する状態を見せてくれ、生じたものがさらにどのように善果、あるいは悪果を起す因縁となるか、また、善なるものの生起を見たくなり、その因縁の過程の真実を知りたくなるからです。」

因縁、因縁、書いていると、またその言葉に囚われがちなんですけど。。(笑)
このようなことを理解していくことは大事と思います。

仏法や仏教に対する探究心と言いますか、自身の心に対する探究心だとも感じています。
仏教や仏法が語ることが正しいと、闇雲にただ信じるのではなく、それが本当に正しいのかどうか探究していくこと、確認していくこと、この心の姿勢が大事と思います。

この好奇心を満たそうとする心によって生かされている気もしていますが。。

観察すること

仏教と出遭って、大事だと感じたことの一つは、
心を観察することです。
最近、観照という言葉も新たに知ったのですが、ここでは観察としてみます。

観察する、ただ見続けること、ただこれだけのことなんですけど、意外とできないことなんだなと思います。
なぜなら、たぶん、多くの人が心を私の心だと思っているからかなあと。
私もずっとそう思ってきましたし、今でもそのような瞬間も感覚も少なからずありますからですね。
私の身体、私の心、私の思考、私が考えている、私が感じている、とそう感じてしまいますよね。
ただの感覚でしょう、とスマナサーラ長老は仰っておられましたね〜。感覚、なんでしょうね。

私の身体、私の心、としか思えないので、そこに執着して、なんとかコントロールしようとしますね。
もし仮に、因縁によって生じたものであり滅するものだと理解していたら、どうでしょうか?

たぶん、今この時点では、
それらを受け入れることしかできない。
のかなって。
私のものではないんですから、その時点では私はコントロールできないんですね。

そしたら、何かをすることは意味のないことに思えたりもしますが、ちょいとよく考えてみると、そうでもないんですね。

なぜなら、因縁によって生滅するんですから、その自分が行うことも因縁となるわけです。
だから、仏教が言うところの戒、は、そのよき因縁を整えていくことなんだと思います。

あれだな。
もうそれはそのようなものであると見ているのかもしれません。

因縁を見ること

「私たちが一切のものを如実に見る、因縁のままに見ることを知ると、それは創造を奨励します。というのは因縁を見ることは、様々なものの生起の過程と一切のものの関係を見ることだからです。」

心を観察するということ、いろんな出来事やものごとや人間関係を観察することは、何をしているかと言うと、様々なものの生起の過程と一切のものの関係を見ること、をしているんだと思うんです。

ですから、何かに秀でている人は、その分野の観察に優れている人なんだろうなと思いますね〜。

でも、因縁を見るって、どう見るんでしょうか?なんか一見すると難しそうですよね。
わたしはちょっとした会話、挨拶だけとかでも心と心のやりとりを観察するだけでも学べるなあと思っていて。

笑顔で挨拶すると相手も笑顔になったり。
こちらが笑顔で挨拶しても相手が素っ気無いとモヤモヤしてきたり。
これって何でしょうか?
これも一つの因縁ですね。
こういうのを観察してみます。

因縁の生滅は常に連続性があるので区切りはないですし、いきなり細かい因縁の生滅は見えないと思います。
一つの出来事として見ると、コミュニケーションには区切りがあるので、一つ一つ観察していくんです。
人間関係は学べますね。
決して100%うまくいくことはないですから、たくさん失敗するケースで学べるんですね。
でもそこに「失敗する私」がいると、ただ落ち込んだり自分を責めたりしちゃうので、こういうのを始めたての頃はなるべく自分を第三者を観るように一つの事例として観察することが大事と思います。

こうすればうまくいく
このようにしたらうまくいかない
を繰り返すことで学んでいく。
学ぶことで繰り返さなくなるんでしょうね。
でもこれってキリがない気もするんです。
結局は100%の完璧さは手に入れることができないんです。
なぜなら全く同じ状況が現れることは2度とないからだと思います。
そしたらもうそれを受け入れるしかないと知る。
そんな感じかな〜。

問題を解決していき支援していく

「少なくとも世の中、社会の中で生きていく者が何かを行い、何かの法を実践して、自分や他人の成功や失敗、繁栄や破滅を因縁のままに見ようとする見解があれば、ただ何となくあの人やこの人、あれやこれやを責めてばかりいないで、きちんと調べて考察し、正しい因縁に沿って解決して防ぐか、あるいは支援していきます。」

これができるって、なかなかですよね。
誰かを責めたり悪者にすることは一番簡単ですし、よくやりがちです。
でもそれでは問題は解決しない。
その態度は、正しくないのだと思います。

この見具足は、最後に出てくる如理作為具足を支援する、とあります。
正見を生じさせる2つのものの一つが如理作為。
もう一つは他からの声。
人の話を聞いて、自分の頭で考えてみる。
これ、自分が考えているようですが、たぶん考えようとすることではないんです。

人の話を理解しようと聞くこと

相手が何を言おうとしているのか、気持ちを聞くことだったり、話の内容を理解することだったりします。相手の話を聞くって、ジャッジすることではないんです。いい悪い、正しい正しくないは、置いておくんです。
そのように理解しようと聞いていると、たぶんこう理解されます。
ああ、この方は、このように物事を捉えて、このように思っているんだな、ということです。ただ、それだけなので、ジャッジしなければ、そのように受け止めることが可能です。

でも、難しくないですか?これ。

めっちゃ話ずれますけど、人の話を理解しようと聞けるようになるためには、人に話を聞いてもらっていることが先にあると言いますか。

落ち着いて話を聞いてもらっていること

これは人でも自分でもいいのですが。
自分の話をまずは自分でよく聞いてあげていること、もしくは誰かに聞いてもらっていることが先にできていると、人の話もよく聞くことができると感じます。

正見であれば煩悩は働くことができないです。
煩悩は苦、正見は苦を滅していきますね。

ですから、貪瞋痴がある時、正見ではないものの見方をしていると理解しています。

そしてそれは、執着ですね😊

何かを掴んでいる心

正確に言えば、掴もうとしている心かな。
自分の執着に気づくとフッとリラックスできる感覚があります。

カンポンさんは苦しみに気づいたら、フッとリラックスしてその苦しみを観てみてくださいって、仰ってましたね。

わたし自身は、毎日のように子どもに対する執着を観察します。
優しく逞しく、そして賢くなっていって欲しいと(笑)思っていますから、色々と口を出したくなるんですよ。
これってめっちゃ執着ですね。
なぜそうなってほしいと思うかといえば、幸せになってほしいとか、真実に気づいていってほしいとか、自分自身が善いと信じるものを子どもに押しつけたい思いなんだろうなって。
親であれば多くの人がけっこう普通にそう考えてしまうものかもしれません。

でもやっぱり、ここも因縁で見ていきますと、(笑)

親の口出しが多くなれば多くなるほどに、子どもは親の言うことを聞かなくなり、子どものストレスとなり、本来の子どもの能力を半減させてしまっているなあと感じています。

子どもに幸せになってほしい思いは、そこに置いておいて、少し距離をとり見守る姿勢でいること。何か支援する必要があれば支援していくこと。
もちろん、口出す必要がある時には、勇気を持って責任を持って口出すこともあると思います。
完璧でない親が失敗しないわけはないのですから、ここも勇気を持って失敗は失敗として認めて、またその都度試行錯誤で子どもと向き合っていくしかないなあと思います。親も人間ですからね😆

私の子じゃなくて、仏の子ですね。

なんの話だ〜

見具足🤭

そう、だから、やっぱり何度も言っていますが、執着なんだろうなって。
執着が強いと、偏見、となったりします。
偏見を持ってる時って、大抵は自分が偏見を持っているとは思っていないので、基本的に人の意見や話は聞かないという心の姿勢だと思います。

人の意見や話を聞けない、が正しいかな。
自分は正しいと思っていたら、人の話は聞く必要がないと思っちゃうからですね。
聞きたくない、が正解かもしれませんが🤭
ですからたぶん、心の姿勢としては、内に対しては確かめる姿勢で、外に対しては学ぶ姿勢でいた方がいいんだろうなと思います。
それはなんのためにするんでしょうか?
やはり、自己の開発、世間的に言えば、
精神的に成長していくために、するんだと、思っています。

学ぶって、意外と難しいことですね。大人になればなるほどに難しくなっていきます。
だんだんと、これでいいんだ、これが正しいことなんだ、が増えていきますしね。
いつまでも学ぶ姿勢で居続けることは本当に難しいことなんだなって感じました。

そして、自分自身がいかに理解していないか、わかっていないかがわかること、これが大事ですね。それがわかると謙虚にならざるを得ないんだと思います。
まだまだ学びが足りない、謙虚さがない、精進が足りないなあと😂🙏
なんか渇愛っぽいな。。

ちょっと長くなりましたが、見具足を学ぶことで、見、というものの理解が少し深まった気がします。

精進精進🙏

残りはあと不放逸具足と如理作為具足、もう少し頑張ってみようと思います。

生きとし生けるものが幸せでありますように

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