不放逸 Appamāda heedfulness
昨年の夏のこと。
「毎日、朝起きてから夜眠るまでなるべく気づいているようにしよう」と、私が仏道修行を真面目に取り組むようになった。
そのきっかけの動画です。
スマナサーラ長老には、感謝の気持ちしかありません🙇♀️🙏😊
この動画を先日久しぶりに、また見たのです。
こういうことは、よくありますね。一度読んだ本でも、あ、このこと書いてあったのどの本だったかな?とか、一度学んでも身についていないことは多々ありますから、また学び直すんですね〜😊すると、全く新しい発見があったり、今だから理解できたりと、また、そういうのが学びの醍醐味だったりしますね🙏😊
久しぶりに見ようと思ったのは、朋友(法友)さんとの会話がきっかけではあったんですけど、英語で仏教を学んでいると、日本語だけの理解の時とまた違って、理解する時に深みが出るといいますか、表現の広がりもあったりして、学びが深まる気がしています。
それで、再度、不放逸を学んでみようと思って、動画を見てみました〜。今日はその、学びを共有できたらと思って、書いてみました。
いつも書いていますが、私のフィルターがありますので、ご注意くださいませ🙇♀️😊
さて、この動画は、経典の解説なんです。スマナサーラ長老の経典解説は、すごく勉強になりますし、わかりやすくご説明くださいます。ありがたいですし、とても学びになりますから、仏教を学ばれる方にはお勧めです😊🙏
動画はたくさんありますから、興味のあるものをつまみ食いのように、ちょこちょこ見るのもいいと思います。
経典解説はちょっと長いので、見る時に、エイヤッと、気持ちを入れないといけないんですね〜😂🙇♀️見ていたら、あっという間に時間が経つんですけど、時々、長老の話がずれて、あれあれってなるときも、、🤭面白いですよ👍😂🙇♀️
でも、私も最近はあまり見れてないんですけどね〜、またちょこちょこ見ようと思います🙏😊
さて、本題です。
「不放逸経」〜たった一つの命綱
動画を見ていただければいいのですが、私はこのように聞かせていただきました🙏というものです。感想などを交えて書いていきたいと思います。
「生命は不放逸でいることで、自分の身を守り、命を繋いでいるんです。」というようなことをたしか、始めの方に長老は仰ったと思います。
この経典は、お釈迦様とコーサラ国の王様との会話なんです。
この世で成功をおさめたい王様は、お釈迦様に聞くんです。
「この世界で、どうやったら成功しますか?そのポイントを一つだけ、教えてください。」
お釈迦様はこう答えます。
「成功をおさめるための唯一の道があります。それは、不放逸です。」と。
めっちゃはしょってますけど、だいたいこんな話です😂🙏
不放逸、パーリ語でappamāda アッパマーダ、英語だとearnestness、diligence、heedfulness
最近、仏教英語を学び始めて、気づくんですけど、パーリ語から日本語、英語にそれぞれ訳された言葉の意味合いというか、イメージするものだったり、かな?は、必ずしも一致しないことがあるんですね。
それは、英語を日本語に訳したときにわかるんですけど、earnestness、diligence、heedfulness は、それぞれ、日本語に訳したら、真面目さ、勤勉さ、あなたの責任(細心の注意を払う)を意識している特質。です。
パユットー師の仏教辞典からですと、
日本語には、パーリ語にあたる単語があることが多いのですが、英語だとそれにあたる単語がないんですね。appamāda=不放逸なんですけど、英語だとそれそのものを指す単語はないんだと思います。それは日本が仏教国であることが大きいとは思いますし、たぶん、この違いはあるんだろうと思います。
ですけど、不放逸、とか、放逸、と聞いて、どのようなことを思い浮かべるか、どのように理解するかは、人によって違ったり、よくわからないことが多いと思うんです。
私は今まで、不放逸は気づいていること、だと大雑把にですけど、実際思っていたんです。
でもこの度、英語を学ぶにあたって、あれ?勤勉さ?なの?みたいな🤭😂
やっぱり仏教を学ぶのは面白いと思ってしまいます。
長老が言われていたことで、もう一つ面白かったのが、不放逸の反対の、放逸pamādaの、madは、酔う。という意味があるそうです。
酔っているとどうなるか?
客観的判断で活動しません。
放逸は、
間に合わない。怠け。今、行うべきことを行わず、後回しにする。と、このような意味だそうです。
ノートに書き写したものですから、字の間違いがあったらすみません🙇♀️
感情でなく、理性で生きることがappamādaであると、長老は仰った気がします🤭😆🙏
長老節だなあって勝手に思ってます😊🙏
appamādaを、Satiと、解説することもあります。不放逸と気づきは、何か似ているのだ、と、たしか長老は仰られましたね😊🙏
いまの瞬間に、やるべきことをやること
いまの瞬間に、やるべきことをやること
これもappamādaだし、Satiも、今のこの瞬間に気づいているとかそんな感じ。正知Sampajaññaも似てるんですよね〜。
もう、私の理解ですけど、、
今この瞬間に気づくことが、Sati
そして、Satiで気づいた今やるべきことをしっかりやることがAppamāda
そして、やるべきことをやっていることをしっかり如実に知ることがSampajañña
っぽい!
違ったらごめんなさい🙇♀️🙏
わけわからないので次行きます。
Appamādaは、特別な行為ではありません。
と長老は仰られましたね。
不放逸は、性格です。この性格の人は善行意をします。
道徳的な性格。
不放逸の人は、道徳を守っている。
性格は不放逸で、感情で生きない、理性のある人を賢者と言います。
特別な行為ではなく、何をするときにも、感情の衝動を使わずに、理性でやってみることです。と仰られていました🙏😊
道徳の人って、堂々と正論を実践しているかもしれませんね。
世間の感覚ですと、人に感情があるのは当たり前なので、怒るのも、悲しむのも、喜ぶのも、楽しむのも、当然だと生きています。それは、仏教からすると、煩悩の奴隷なんですね。
私は、自分自身は仏教の人だと思っています。怒らない方がいいし、悲しまない方がいいし、あまり喜びすぎたり楽しみすぎない方がいいと本気で思っています。
これは、怒るな、悲しむな、喜ぶな、楽しむな、ということでは、全くないんです。感情を生じさせるな、と、誰にも命令はできませんし、誰もその命令に従わせられるものではないんです。
私自身も怒りますし、悲しみますし、喜びますし、楽しみます。
煩悩とはそのようなものである、と自分自身を観察していって、よく知ることが大切だと思っています。
私、といっていますが、仏法からすると、感情、煩悩は、私でも私のものでもないんですね。そして、それに気づく心も、私でも私のものでもない。先日のスティサート師のご法話もそのようなお話でした。
私自身は、わたしの幸せを高めていくにあたって、生命を慈しんでいくにあたって、感情の奴隷にならない方がいいな、と理性に基づいて考えるから、そう思える、ということかもしれません。
今の私は、そう思っています。
お釈迦様の最後の言葉も、
「不放逸であれ」
放逸であるな、かな?😂🙇♀️
だったと聞かせていただいております。
怠らず、精進するんだよ、ということだと理解しています。
毎日、心を観察していますと、面倒だとか怠けたい、と、そんな心が生じては滅していくのを(笑)よく見ますし、やるべきことを後回しにしている自分もよく見るんですね。
放っておくと、怠けるし後回しにしてしまうのが煩悩なんでしょうね。
だから、しっかり観ておくんですね。
あ、デジャニヤ長老も言ってましたね、しっかり気づいておくしかない。と。
やっぱり私にとって不放逸は、気づいていることかなあ。
スマナサーラ長老も、その理解は間違いではないと仰っておられましたね。
そして最後にdo’nt think!feelなんでしょうね🤭ここまで書いといて😂
しっかり気づきを鍛えて怠けずに精進せいよ
ということだと思います🙏😊
今日はこの辺で🤗
コメントなど気軽に頂けると喜びます🙏😊
生きとし生けるものが幸せでありますように
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