どのように生きるか?「三相」(無常・苦・無我)①
ポー・オー・パユットー氏の「仏法」を紹介するシリーズ。第三章に入ります。
この第三章、非常に大切なところです。仏法の真髄と言いますか。法そのものって感じてます😊🙏
私は上記のホームさんの仏教講座で、学ばせていただいただいております。私の学びの共有として書いておりますので、私のフィルターがあります。そこはご了承の上、ご覧いただければと思います😊🙏
この章は、皆様に是非読んでいただきたい引用部分が多くなりそうですから、2回か3回くらいに分けて書こうかと思っております。
この、無常・苦・無我は、現象を三つの側面から見た同じ状態のことを現している、というようなことをホームさんは言われていたと思います。
※三相の法の本質(実相)
「一切のものは様々な構成要素が組み合わさって生まれる」、あるいは「様々な構成要素が一緒に集まって形となる」という初歩の仏法の原理は、様々な材料を集めて様々な道具を作るように、組み立てれば形としてできあがるという意味ではない。
本当は、一切のものは様々な構成要素が組み合わさって生まれるうのは、ただ初歩的な理解をやさしくするための説明に過ぎない。
真実は、一切のものは流れの形の中にある。様々な構成要素は、ことごとくがさらにまた細かな構成要素から成り立つが、それぞれのものに
自由なそのものの実体はない。常に生じては滅し、不変ではなく、安定していない。この流れは全体の輪郭と特徴をゆるやかに維持するように循環して流れるか、もしくはそのまま続く。というのは、様々な構成要素はお互いに依存関係にあり、お互いに因縁になって続いていることが一つ、これらの様々な構成要素はことごとくがそれ自体の実体がなく、真に不変ではなく、安定していないことが一つである。
これらすべての様々な成り行きは、自然に従い、一切のもの自体の相互関係と相互の因縁に依存している。これ以外に、造物主、あるいは超
能力者といった立場で上に立つ、その他の支配者はないので、理解しやすいように自然界の法則と呼んでいる。
ブッダが自然界の法則の形として示された二組の大きな法の原理がある。「三相」( Ti-lakkhana)と「縁起」( Paticca- samuppada)である。この二組の法は同じ真理を二つの角度、あるいは方向から見たもので、本当は一つの法則だと見られている。
三相は、一切のものが依存関係にあって、縁起の道理に従い、互いに連続する因縁となって依存関係の状態にあるとき、そのように出現する一切のものの相を示そうとするものである。
一方、縁起の道理は、一切のものが継承する因縁となって互いに依存関係の状態の流れになって、三相という相を出現するまでの状態を示そうとするものである。
この自然界の法則は法界( Dhamma-dhat)である。すなわち、自然に安定する状態である。また、法住( Dhamma-thi)である。すなわち、自然に住む、自然にしっかりと根を下ろした状態である。また、法決定( Dhamma- niyama)である。すなわち、一切のものは自然界の法則、自然の定めによるものであって、創造者、超能力者は関係せず、いかなる教祖や宗教が生んだものでもない。
この自然界の法則は、この法則を見出し世間の人々に明らかにする人であるという仏法の意味における師の立場を示すものでもある。
仏語は三相の原理についてこう説明しておられる。
「多くの如来(ブッダ)の出世、不出世に拘わらず、その界(本質)は以下のように、法住、法決定として不変である。
①一切諸行は無常なり
②一切諸行は苦なり
③一切諸法は無我なり
如来はそのことを悟られ、理解されて、明かし、説き、形式を定め、確立し、宣布し、分別し、理解しやすく一切行は無常なり、一切行は苦なり、一切法は無我なりと言われた」
前回の六処までは、生命とはどのようなものなのか?ということでした。この、三相は、生命はどのようにあるべきか、だったかな。
この世のすべてのものは、無常・苦・無我である。と聞いて、どのように感じられるでしょうか?
本は、やはり難しく書いてあります(?)が(笑)、
ホームさんの説明によると、
無常は、同じ状態が続かないこと。
苦は、同じ状態を保てないことが、感覚とリンクして、葛藤がある様子、のように言われていたと思います。思い通りにならない、コントロールできない。とも。
無我は、ある状態のもの、実体のあるもの、は、ない。そのもの自体が実体ではない。分解できる、と言われていたと思います。
私の感覚だと、
無常はこの世の有り様で、苦は私が関わると見えてきて、無我が真理なんだろうな〜って、感じでしょうか。よくわからんですかね😆
この三相を学ぶ意義は、実体がない、と、呆然とすることではなく、原因、条件の要素の集まりでできていると理解するためです。とホームさんは言われていましたね。
仏教では、圧倒的に、因縁(原因と条件)の話が多いそうです。
この三相はアッタカター(三蔵の注訳書)では、一切行に対して共通の相として共相[ぐうそう](Samanna-lakkhana -The Three Characterisitics of Existense)とも呼んでいる。(しかし、一切法に対しては共通ではない) 理解を容易にするために、三相の意味を要約しておこう。
○ 無常性( Aniccata= Impermanence)
常でないこと、安定がないこと。生じ、衰え、滅していく状態。
○ 苦性( Dukkhata= Conflict)
苦であること、生滅によって圧迫されている状態。そのような状態を変化させようと働く要因のために、その状態を保つことができず、そのものの中に無理な圧力と軋轢(葛藤)の生じる状態。それ自体が十分ではなく欠陥のある状態。渇愛をもって欲求する者に、真の欲求が適わないか、あるいは完全に満足できず、渇愛・取でもって求め執着する者に苦が生じる状態。
○ 無我性( Anattata= Soullessness or Non-self)
自我がないこと。どのようになれと命じる真の自我はない。一切のものが、もしあると言うならば、それは互いに依存し合う関係であり、常に絶えることなく生滅を繰り返している様々な要因からなる流れの形であると言わねばならない。それ故、確固不変の状態ではない(無常である)。生滅して安定せず、依存する因縁のままであるなら、当然圧迫(逼悩)、圧力、軋轢(葛藤)があり、それ自体が完全ではないことを示す。あらゆる部分がこのように因縁によって絶えず生滅する流れの形であるなら、当然そのものの実体はなく、真の自我はない。誰かが望むままにどのようになれと命令し強制できるような力の支配下にはない。
人、有情の場合、その人、有情は分解すれば、五蘊のみにて構成され、五蘊以外にほかに何もないことは、自由な自我が別にあるという問題を断ち切ることである。それから五蘊をさらに別々に分解して、それぞれを調べると、すべての蘊は無常であると分かる。無常であれば苦である。それに執着する人にとって圧迫、圧力のある状態であり、苦があれば自我はない。
自我がないということは、一つには、それぞれがすべて因縁から生じて、そのものの自我がないこと。また一つには、真にその人、有情の力の支配下にはないからである。(もし、人、有情が真に五蘊の所有者であるなら、当然自らの望むままに、例えば、老いるなとか、病むなとか、望むままに自ら命令することができるはずである)
無我の説明が圧倒的に長いですね🤭
①一切諸行は無常なり
②一切諸行は苦なり
③一切諸法は無我なり
この部分の質疑応答で、なぜ無我だけ諸法となっているのか、と説明がありました。
無常、苦、無我の関係性と言いますか、無我の説明をする時には、無常と苦が出てくるそうです。
これ、もう随分前なので忘れちゃいましたが、確か、諸法と諸行の違いをスマナサーラ長老が説明されていて、諸行は諸法に含まれる、と言う言い方をされていたので、無我も、無常と苦は、無我に含まれているのかなあと思いました。ちょっとニュアンスが違っていたらすみません。
仏法は、無我をいうために、無常と苦を説かれたのかもしれませんね。
仏語は、五題の場合の三相を以下のように明快に説明している。
「比丘たちよ。色(受……想……行……識)は無我である。もし、色(受……想……行……識)に我(自我)があるとすれば、その色(受……識)は病にはなりえず、色(受……識)について、『わが色(受……想……行……識)について、このようになって、そのようにならないで欲しい』と願望する通りになろう。しかし、色(受……識)は無我であるから、色(受……識)は、病になりえて、誰もが色(受……)について『我が色(受……識)について、このようになって、そのようにならないで欲しい」と、願望する通りにならないだろう」
「比丘たちよ。お前たちはどう思うか?
『色(受……識)は無常か、無常ではないか』
(以下、識まで同じ質間が続く)
『無常です』
『無常なものは、苦か楽か?』
『苦です』
『無常なものは、苦である。変壊は当然のこと。そのものを、我所である、それは我である、それはわが自我と見るべきか否か?』
『そう見るべきではありません』
比丘たちよ。それ故に、色(受…識)の過去、未来、現在、内外、粗密、勝劣、遠近のすべてを、『それは我がものではない、我はそれではない、それは我が自我ではない』というように正慧で如実に見るべきである」
ヒンドゥーや西洋の多くの学者は、このことについて次のような理由をあげて説明しようとしている。
ブッダは、我、あるいは最高のアートマンを否定されていない。ただ、様々な現象である法だけを否定されているのだ。例えば、この経などにあるように、五蘊のすべては我ではないと否定されたが、これは、五蘊に我があると間違って思い込まないようにという説明に過ぎない。というのも、存在する真の我は五蘊ではないからだ。彼らは、そのほかの多くの仏語を取り上げて、ブッダは様々な現象である法だけが我ではないと否定されたが、最高の段階のアートマンを認められているということを示すために、涅槃がアートマンと同一の状態である、あるいは涅槃こそ我である、と説明しようと努力している。
このことは、機会があれば涅槃に関するところで批判しよう。これについてはここでは簡単に次のように、倫理面についてのみ触れておく。
凡夫、特にアートマンに関する信仰体系を学び修習してきた者は、何らかの色の中に自我があるという偏った考え方に固執し、あるいは求めて、知らず知らずのうちに心の奥深くある望みに応えようとする。ある色(五蘊の段階で)の中には自我があるという気持ちを失わなければないとき、新しいものを考えるか、または固執しようとする。しかし、仏法の原理に従えば、一つのものに固執するために一つのものを解き放っこと、もしくはもう一度奴隷に陥るために一度の自由から逃げることはない。今一度考えてもらうために、簡単に言っておこう。自我のあるものは存在しえない。存在しうるものに自我はありえない。
一切のものが流れの形であり、受け継がれる要因の依存関係にある。そして無常で、苦で、無我の相がある。どのようにかは、後の十二因縁の道理で説明しなければならないだろう。そうすれば意味がもっとはっきりしてくる。
「比丘たちよ。それ故に、色(受…識)の過去、未来、現在、内外、粗密、勝劣、遠近のすべてを、『それは我がものではない、我はそれではない、それは我が自我ではない』というように正慧で如実に見るべきである」
無我、というのは実相で、自我はない、とそのことを、如実に見るべきである。と、言われているようです。
え?自我はない、なんて言われても、この自分というこの実感は、どないしますねん?!て、感じの人もいるかもしれません。実際、この辺の感覚も、私自身、ずっとよくわからない感じの頃もありました。
ホームさんが言われていた通り、この三相を学ぶ意義は、実体がない、と、呆然とすることではなく、原因、条件の要素の集まりでできていると理解するためのもの、なんですね。
今この状態、生じているもの、は、因縁によって今この瞬間だけに成立しているもので、常に変化していて、私の思い通りになるものではないのだ、どのようになれと、命じることができるものはないのだ、と、
誰も、誰かのものではないのだ、と、理解することが大切なんだと思います。
次回は、三相を学ぶことの倫理面から見た価値について、引用して学んでみようと思います。
コメントなどお気軽に😊🙇♀️🙏
生きとし生けるものが幸せでありますように