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与えることは、与えられること

仏教では、与えることを、布施と言います。
私のものを誰かに与えることです。惜しみなく、ケチることなく、ですね😆与えた先のことに後ろ髪引かれることなく。。。

たぶん多くの人は、与えられることが好きだと思います。子どもも、誕生日にもらえるプレゼントなどを、すごく楽しみにしていますし、もらうと嬉しそうです。

人に与えることが好きな方もけっこういると思います。
プレゼントを選ぶことが好きだったり、人を喜ばせることが好きな人は、与える、ということを好みますね。

与える、という言葉、ちょっと上から目線やなあ、、と感じることもあるかもしれません。
動物に餌を与える、という言葉。なんか上下関係を感じてしまう人もあるかもなあ、なんて感じます。

布施する、は、与えることなんですけど、布施はどちらかというと、下のものから上のものへ献上するっぽい感じがしませんか?お坊さんに、お寺に、布施する、という感じですよね。
でもこの、布施の、施す、という言葉になると、上のものから下のものへ施しを与える、というような意味合いになって、やっぱり与えるって、上から下?みたいな感じがしませんか?

私としてはですね、もうね、施しに上も下もないんですよね😆
何であんな奴に施されない(施さない)とあかんねん!みたいなね、心があったら、気づくことだと思います。慢という、自分と人を比べる心ですね。

とにかく、人のものではない、自分のものと思うものを、人に施していくんですね。私が与えることのできること、することができることをね、ただやっていくだけなんだと思いますね〜。

。。。

施しをすることによって、変化します。この変化は実感していただければいいと思うのですが、私が感じた変化を書きますと、まず、心が軽くなる。につきますね😆私のものを手放すという行為は、心を軽くするんですね。逆に、何かを得よう得ようとする心は、心を重たくします。

といっても、心に重さがあるわけではないですね。これ、法友さんが言ってたな🤭🙇‍♀️🙏
感覚です😊❣️
心が軽くなっていく感覚、身体も軽くなっていく感じがします。動きが軽快になるんですね〜。

実は、私が与えるという行為は、与えられている行為なのでしょうと思うのです。

それは、私が、私が、と我を張らなくても、満足して生きていける実感が得られることが大きいのではないかと思うのですね。
それは人に限らず、動物に愛情を与えることもそうなんでしょうと思います。
人は、自分のためでなく、誰かのために役立っている感覚で、心が元気になっていく。これも一つの法則なのかもしれません。
あ、パイサーン師のご法話にも通じるかもです。

人が、犬のお世話をすることによって、変化していくというご法話でした。

でもこの感覚も、執着をしてしまうと、あっという間に、苦へといざなわれますわね🤭😆

自分が行った行為や、施した物に執着をしないということが、鍛錬のポイントでしょうかね〜。私は、執着していてもいいと思うんです。そこに気づけばOKと思います。

そして、執着しないけれども、自分が何を思い何をしているのかを、そして、それがどのような物に影響を及ぼし、どのように変化していっているのかを、なるべく確認していく、気づいていくことでしょうと思います。ここも、マイペースに、できるだけです。

因果法則を役立てせていく方向に変化していくように、善き因を積み重ねていくことなんでしょうと思います。

なんか、着地点がいつも変わりますけど、私の文章はいつも無常です。。。

生きとし生けるものが幸せでありますように

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