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欲はいけないものなのか

以前から、この辺はずっと曖昧に理解していたところがあったのです。
仏教を学んでいると、欲をよくないものであると認識しがちだと思うんです。
私自身は、欲だらけな人ではないけれど😂いつもやりたいことはあるし、欲が全くないということはもちろんないです。
私は生きているということは欲はあって当たり前なのではないかと思っています。
真面目な仏教徒が、欲に対して嫌悪感を持ってしまうのは、仕方がないところもある気はするのですが、あまりそれを嫌いすぎるのもよくないんじゃないかな〜と、なんとなく思っていたんですね。
あと、一般的な仏教は戒律もありますから、禁欲的なイメージもありますし、そうなんだけどちょっと誤解もありそうな気がしていたんです😂

本棚の奥〜の方から、こんな本を見つけてしまったのです。私が昔々に買ったパユットー師の「仏法」に続く2冊目の本です。
そして読んでいると、欲について少しヒントがあったので、紹介したいなと思って、書きました。

 6. 実践者が欲を持ってはならないというのは本当か?

 以上のことで理解すべき注目事項として、多くの人が、もし、法を実践する、あるいは法の実践者が果を得ると、何も欲しくない、善くなりたくもない、欲のない人になるという話があります。もし、実践者と名が付く仏教徒であれば、「欲しい」という言葉を話すと気持ちが悪いと感じさせるので、欲のある状態を避けるように努力し、他人に対して自分には欲がないことを示そうとすると感じています。これはある種危険なことで、実践者、あるいは仏教徒全般が欲のない人であるという印象、あるいはイメージを生むところまで行きます。
 ここで欲ということは疑問のある言葉なので、理解を進めなければなりません。実践者になれば、欲を消滅し、なくし、欲を持たないという理由は、欲が渇愛(Tanha)であり、不善であると理解しているからです。そしてこの欲はただの一種であると理解しています。すなわち渇愛です。
 ブッダは、渇愛が、すなわち欲が苦を起こす原因であり、すべてを断ち捨て、なくさなければならないと教えておられます。私たちも欲を持たないように、欲を捨てるように努力しなければなりません。自分自身が、欲のようなものはない人間だと、このように見せようと努力します。
 そこで、欲には二種類あることを理解する必要があります。僧侶の言葉で、中立的な Chanda という言葉を使います。これも欲という意味です。私たちは渇愛で始まらない Chanda という欲に戻って始めましょう。この Chanda という欲については、多くの方々が耳にされたことがあるでしょう。
 この Chanda という言葉には二通りの意味があります。
 最初の Chanda は渇愛欲(Tanha-chanda)です。自分の眼、耳、鼻、舌、身を通じて、心に奉仕するものが欲しいという意味です。触を通じて安楽を生じさせるものを得ることです。
 この種の欲は、人間が何の知識を持たなくても自然にあります。人間は生まれると、生きることにとって何が価値あることか知ることなく、眼、耳、鼻、舌、身に感じて、楽しませてくれるものを得たいという望み、欲を持ちます。
 この種の欲が、何の知識もなくあるとき、無明から生じた欲だと言います。したがって、この渇愛と呼ばれる欲は無明と関係します。何の知識がなくても、感覚に従ってあるだけです。眼、耳、舌などに好ましく感じるとき、直ぐに欲しくなります。しかし、眼、耳、舌などに好ましく感じないときは、直ぐに欲しくなくなり、嬉しくありません。自分に奉仕するものが欲しく、眼、耳、舌などに楽しいものだけを求めます。
 この種の欲が生じるときは、生きることに価値があるかないかはっきりしません。自分に奉仕してくれるものは、生きることにとって罪や危険をもたらすか、あるいは偶然に役に立つかもしれません。現代風の言葉で言えば、生活の質を壊す、あるいは生活の質を増すということでしょう。当てにならないことです。しかし知識ではなく、感覚で進むだけだから、生活の質を壊す方が多いでしょう。
 よく挙げられる例があります。食べ物の味に対する欲は、生まれると何も学ばなくても、美味しいか美味しくないかの感覚があり、美味しいものが欲しくなります。美味しいものが欲しいときは、知識がなくても美味しいものだけを望んで、範囲を超えるまで美味しいもののほしいままになり、毒のあるものや危険のあるものまで食べて、生活の質を壊します。これが渇愛による欲です。
 しかし、知識が得られると、もう一種の欲が生まれます。生活の質に関係する欲です。それは知識から生まれるか、あるいは知識、理解ができて生じるものです。これが生活の質を生み、生活に役立つかどうかという知識です。このような欲は第二番目の種類の(Chanda)です。善欲(Kusala-chanda)、あるいは法欲(Dhamma-chanda)と言います。
 善なる欲、あるいは法における欲という意味です。これで二つの欲が揃いました。二番目の種類の欲は価値のあるものへの欲で、生活の質を生み、無明の破壊、あるいは減少によって知識と関係し、また明を起こします。明が生じ始め、知識ができると、役に立つものかどうか、生活に役立つものか否かで分けることを知り始めます。そうして二番目の欲ができます。すなわち、生活の質を生むものか、生活に価値を与えるものが欲しくなります。
 この二番目の種類の欲である善欲、あるいは法欲を短く呼ぶときは、志欲(Chanda) とだけ呼びます。この点を混乱しないでください。
 渇愛欲と呼ぶ一番目の欲は、短く呼ぶときはただの渇愛です。したがって、「渇愛」という言葉と「志欲」という言葉は、別の種類の意味になります。しかし、正しく言えば、渇愛は渇愛欲で、善の側の欲である志欲は、善欲、あるいは法欲となります。
 この節を要約すると、やさしく覚えるために、欲を二種に分けました。
渇愛が一つと、志欲が一つです。
 渇愛とは、知識なしの欲で、ただ自分の眼、耳、鼻、舌、身、心の触神経に奉仕して享受する感覚に応えるだけです。
 志欲、あるいは第二の欲の方は、生活の質、価値のあるものに対する欲で、知識と関係し、何が真に生活に価値があり、罪があるか分けることを知ることから始まります。
 まず理解すべきことは以上のことです。
「仏法の思考と実践」ポー・オー・パユットー

私のモヤモヤしていたところをしっかりと説明してくださっています。

欲は2種類に分けられる。
渇愛と志欲

私は子どもの頃からこの2種類の欲を自分自身で感じていて、渇愛欲が感情で、志欲が理性だと思っていたんです。
ただこうしたい、というのと、こうした方がよいのでこうしたい、、という感じでしょうか。
心の葛藤で、気づく時がありますよね。
上記では、「生活の質を生むものか、生活に価値を与えるものが欲しくなります。」また、「知識と関係し、何が真に生活に価値があり、罪があるか分けることを知ることから始まります。」とありますね。
たぶん、自分の本当の幸せのために、欲しくなるもの、なのかもしれません。

どっちも欲なんですね😊

やっぱり生きるということは欲なんだなあ。

欲で欲を制す。
煩悩で煩悩をなくしていく。
と、いつか聞いたことがあります🤭😆

煩悩がないと学ぶということができないなーと思います。
煩悩があるから、学べるし、学ぶことがある、のだと思います。

人は学んで善く生きた方がいい。

自分の幸せを本当に願うのであれば、日々学んで善く生きることなんでしょうね😊🙏
そう思いました。

生きとし生けるものが幸せでありますように

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