(2) 戒具足(Sīla-sampadā)
パユットー師の「仏法の思考と実践」を読みつつ、noteに書いています。
本日は仏道という旅に必要な7つの資具、2番目の戒具足(Sīla-sampadā)です。
第一項目、というのは、善友性、のことですね。だいぶ経っちゃいましたけど、以前に書きました。
以前に、戒律について書いた記事もありますので、よろしければ見ていただけたらと思うのですが、戒律を守って生きるということは、どういうことかですよね。
誰もが幸せに生きたいと思っているのだから、そして自分が幸せに生きたいと思っているのだから、人の幸せを壊す行為や苦しめる行為をして生きない方が良い、と私は思います。
慈しみの実践は、戒律を守って生きることに繋がっていきますね〜。
この中では、戒と律の違いとか、意味についてはあまり触れていませんでした。
言葉は、不完全なもの、というところの理由の一つ?
同じ言葉を聞いても、理解していること、想像するものが一人一人違うんですよね。
例えば、何がいいかな〜
仏教。笑
仏教という言葉を聞いたときに、一人一人の仏教の理解やイメージがあるんです。違うんですね笑
もうそこから、本当は私が理解している仏教とは、このようなものです、、、という説明がいる羽目になります😂
ですから、戒律。これもそうで、戒、律、それぞれの言葉が意味するものの説明がいるんだと思います。
しかも日本語ですと、漢字そのものにも意味がありますから、どうしても本来の意味と違って理解してしまいがちなこともよくあると思っています。
もうここは一人一人が少しずつでも理解を深めていくしかないかな〜と思います。
戒律講座で、このようにお聞きしました。あくまで私の理解ということで🙏
法、律、戒
この3つの言葉の違いを理解することが大切です。と確か。お聞きしたのです。
ここ面白かったんです。
上座部の仏教、テーラワーダ仏教の基本は、パーリ語経典なんですね。パーリ語を理解することは、日本語だけの理解より、より正確な理解が深まる気がしています。
仏教、という単語は、お釈迦様が言われた単語ではないんですね。後の人が、お釈迦様が仰られたことを仏教と呼ぶようにしたんです。
お釈迦様自身が、?だっけかな〜、この辺は聞き覚えで曖昧なので、気をつけてほしいところですが、お釈迦様には沢山のお弟子さん方がいて、その集団をサンガと言いますが、そのサンガをなんと表現していたか?
dammmaダンマとvinayaヴィナヤの集団である
ダンマとヴィナヤ(発音は自信ないので調べてくださいね)は、法と律のことです。
法とは、ブッダが発見した真実
律とは、何者かを運ぶもの、運んでいくもの、よきもの真理へと運んでいくもの
という意味があるそうです。確かこのように言われたと思います。
パユットー師の仏教辞典では、下記のように書いてあります。
律とは、等しく秩序ある行動を行うように監督する原理として置かれた規定。
ただ、それらを守ること、というのは、結局行為ですから、行為は業ですから、その行為がよきものへと、運んでくれるんでしょうね。
ここは私の解釈です。
仏教は行為の宗教であるとも言われます。
行為には3つ。身口意。
身体で行う行為
口で行う行為
意思で行う行為
私たちは身体で行われている行為に目が行きがちですが、一番重要なのは、意思ですね。
心がどうあるか。だと思います。
でも仏教を学び出して、学べば学ぶほどに、自分の無知さとアホさが(一緒かな)露呈してきて、笑えます😂
笑えるならまだいいですけど、恥ずかしいことも色々ありますよね🤭😆
まあでもそんな自分でもその時はその時なりに一所懸命に生きていたのです🙏😊
そして今もまさにそうですね😊
私にそのように言ってくださった方(元同僚)の言葉は今でも忘れません。
今だって、お恥ずかしい限りですけど、日々学びですし精進ですねえって思います😊🙏
パーリ語🤭いっちゃう〜🙃?
なんか定番になってきたからいきますか😂
sīla 戒
sīla sampadā 戒具足
vinaya 律
以上です😅
律を掘り下げたいところなんですけど、まだまだ理解が足りませんのでこの辺にしときます。
戒、律、は、なんか深いです😇
さすが戒定慧🙏笑
でもやっぱりあれですね(おばちゃんです😂)
仏道って、自分自身の道ですね。
共に歩んでくださる心強い朋友はいれども、自分自身が自分自身の心と身体を使って、感じて、学んで、歩んでいく。
本当にそういうものだなあと改めて感じました。
生きとし生けるものが幸せでありますように
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