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(2) 戒具足(Sīla-sampadā)

パユットー師の「仏法の思考と実践」を読みつつ、noteに書いています。
本日は仏道という旅に必要な7つの資具、2番目の戒具足(Sīla-sampadā)です。

(2) 戒具足 (Sīla-sampadā)
戒を具えることです。戒とは何でしょうか? 戒とは生きることを平穏に秩序正しく社会の中で共に暮らすことです。社会の中で仲良く暮らす律と実践項目を持つこと、善い社会関係を持つことから始めます。
 先ほどの第一項目では、私たちが社会の中で善い環境を持つことを社会から得たのですが、第二項目では、私たちが社会に与えることに参加し、自己訓練を開始することです。つまり、自己訓練して規律を身に付け、自分が迷惑をかけて社会の秩序を壊すことなく、平穏な秩序を作ることに参加するのです。
 戒具足は戒を完全にし、戒を満ち足りるほど起こす意味です。戒を起こすことは、戒を持つことを創造する意味です。ここでの具足は創造する、あるいは完全にする、満ち足りるように起こすことです。戒具足は、社会に善い関係を創造します。
 私たちは他の人と善い関係を持ち、社会を支援しなければなりません。善友から受け取るだけではありません。他人を苦しめたりしてはなりません。社会に迷惑をかけてはいけません。社会を、同胞を支援するような関係を持たねばなりません。そして、規律のある善い生き方をします。
 どうして戒が必要なのでしょうか? 理解しやすいように比喩して言うと、家や職場、あるいは自分の部屋で、もし物や道具が乱雑に置かれていたら、動くにも何をするにも、何かを使おうとしても不便で、物を下ろす場所もなければ、使おうとする物も見つかりません。ですから、それらの物や道具をきちんと整理して置かなければなりません。そうすれば、快適に住めて何をするにも便利です。
 私たちや社会の生活も同様です。もし、混乱して大騒ぎして秩序がなく、例えば、毎日毎日、いつ何をしたらいいのか分からず、一緒に住んで苦しめ合ってばかりいて、恐れ疑い、危険を警戒していたら、何をすることもできません。生きることも社会を繁栄させるようなことも何もできない、何かしても余裕がない。だから生活と社会の秩序が必要なのです。少なくとも混乱と騒ぎのないようにし、社会の中で互いに苦しめ侵すことのないようにしなければなりません。
 生きることと社会の秩序をきちんとよくするときは、生活の状態と社会の関係は善であり、役に立つこと、あるいは生活と社会を大いに開発して将来に善い結果をもたらす機会を支援することになります。
 秩序のある生活と共住することが戒と呼ばれます。この規律をきちんと整えることが律と呼ばれます。
 逆の言い方をすれば、律はますます開発を促進する機会を支援するために、生活と社会における関係に規則を置くこととなります。そして戒は、律のあること、あるいは律の中に身を置くことです。
 さらに短い文章で言うと、律は規則を置いて生活と社会の開発の機会に役立てる、そして戒はその律の中に身を置くことです。
 戒を持つように訓練する重要なことは、律を持つことです。特に僧にとっては、戒を持つことは重要な原理で律の中で訓練することです。律は生活と共住の規則です。
 ですからこの原理は、社会の中で、他者を苦しめないで、生活の規則を持って善い関係を創造し、他人と共に暮らすことを知ることです。これが学習の前兆です。
ポー・オー・パユットー 「仏教の思考と実践」第一部 
第2章 実践の開始と前進

第一項目、というのは、善友性、のことですね。だいぶ経っちゃいましたけど、以前に書きました。

以前に、戒律について書いた記事もありますので、よろしければ見ていただけたらと思うのですが、戒律を守って生きるということは、どういうことかですよね。
誰もが幸せに生きたいと思っているのだから、そして自分が幸せに生きたいと思っているのだから、人の幸せを壊す行為や苦しめる行為をして生きない方が良い、と私は思います。
慈しみの実践は、戒律を守って生きることに繋がっていきますね〜。

この中では、戒と律の違いとか、意味についてはあまり触れていませんでした。

言葉は、不完全なもの、というところの理由の一つ?
同じ言葉を聞いても、理解していること、想像するものが一人一人違うんですよね。
例えば、何がいいかな〜
仏教。笑
仏教という言葉を聞いたときに、一人一人の仏教の理解やイメージがあるんです。違うんですね笑
もうそこから、本当は私が理解している仏教とは、このようなものです、、、という説明がいる羽目になります😂

ですから、戒律。これもそうで、戒、律、それぞれの言葉が意味するものの説明がいるんだと思います。
しかも日本語ですと、漢字そのものにも意味がありますから、どうしても本来の意味と違って理解してしまいがちなこともよくあると思っています。
もうここは一人一人が少しずつでも理解を深めていくしかないかな〜と思います。

戒律講座で、このようにお聞きしました。あくまで私の理解ということで🙏
法、律、戒
この3つの言葉の違いを理解することが大切です。と確か。お聞きしたのです。
ここ面白かったんです。
上座部の仏教、テーラワーダ仏教の基本は、パーリ語経典なんですね。パーリ語を理解することは、日本語だけの理解より、より正確な理解が深まる気がしています。

仏教、という単語は、お釈迦様が言われた単語ではないんですね。後の人が、お釈迦様が仰られたことを仏教と呼ぶようにしたんです。
お釈迦様自身が、?だっけかな〜、この辺は聞き覚えで曖昧なので、気をつけてほしいところですが、お釈迦様には沢山のお弟子さん方がいて、その集団をサンガと言いますが、そのサンガをなんと表現していたか?

dammmaダンマとvinayaヴィナヤの集団である

ダンマとヴィナヤ(発音は自信ないので調べてくださいね)は、法と律のことです。
法とは、ブッダが発見した真実
律とは、何者かを運ぶもの、運んでいくもの、よきもの真理へと運んでいくもの
という意味があるそうです。確かこのように言われたと思います。
パユットー師の仏教辞典では、下記のように書いてあります。

[35] 教語(Pāvacana 2: fundamental text; fundamental teaching):主な教語、基本
的な仏語、主要な教えの言葉。
1. 法(Dhamma: the Doctrine) : 知るべき真実の原理を説き、行うべき善の原理の指導する言葉。
2.律(Vinaya: the Discipline): 等しく秩序ある行動を行うように監督する原理として置かれた規定。
[75]三蔵を参照のこと。       
(第7巻長部大篇、大般涅槃経142-3頁)
[☆] ブッダの二徳(Buddhaguna 2):[304] を参照のこと。
[☆] ブッダの三徳(Buddhaguna 3): [305] を参照のこと。
ポー・オー・パユットー 仏教辞典《仏法篇》

律とは、等しく秩序ある行動を行うように監督する原理として置かれた規定。
ただ、それらを守ること、というのは、結局行為ですから、行為は業ですから、その行為がよきものへと、運んでくれるんでしょうね。
ここは私の解釈です。

仏教は行為の宗教であるとも言われます。

行為には3つ。身口意。
身体で行う行為
口で行う行為
意思で行う行為
私たちは身体で行われている行為に目が行きがちですが、一番重要なのは、意思ですね。
心がどうあるか。だと思います。

でも仏教を学び出して、学べば学ぶほどに、自分の無知さとアホさが(一緒かな)露呈してきて、笑えます😂
笑えるならまだいいですけど、恥ずかしいことも色々ありますよね🤭😆
まあでもそんな自分でもその時はその時なりに一所懸命に生きていたのです🙏😊
そして今もまさにそうですね😊
私にそのように言ってくださった方(元同僚)の言葉は今でも忘れません。
今だって、お恥ずかしい限りですけど、日々学びですし精進ですねえって思います😊🙏

パーリ語🤭いっちゃう〜🙃?

なんか定番になってきたからいきますか😂

sīla     戒
sīla sampadā     戒具足
vinaya     律

以上です😅
律を掘り下げたいところなんですけど、まだまだ理解が足りませんのでこの辺にしときます。

戒、律、は、なんか深いです😇
さすが戒定慧🙏笑

でもやっぱりあれですね(おばちゃんです😂)
仏道って、自分自身の道ですね。
共に歩んでくださる心強い朋友はいれども、自分自身が自分自身の心と身体を使って、感じて、学んで、歩んでいく。
本当にそういうものだなあと改めて感じました。

生きとし生けるものが幸せでありますように

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