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【ナヒレ決議】第八話 疎外・決起・手紙
「暴力をふるう可能性のある奴と、議論する気はない」
グリーンは会議をすると誘いに来たピギをそう言って追い返した。
なぜ、彼らは急に干川の味方になったのか、グリーンには理解できなかった。ブリジットまで、会議室で過ごし始めている。彼女は自分の過ごす部屋は自由だと言ってきたが、気にくわなかった。
今度はあんな女より扱いやすい人間を錬成してやる。グリーンは錬成すべき人間の特徴を並べたリストを作成していた。その数、ようやく七人。グリーンに逆らわないような、ピギのように自信のない人間だ。
なのに、予定が狂った。ピギさえ干川について、自分に意見をしてきた。グリーンは作ったリストを丸めて放り投げる。気にくわない、何もかも。
会議室から声が聞こえてくる。自分以外の全員が集まって何かをしている。会議は全員が出席しない限りしないと決めた。ピギたちもおそらくそこは破らないだろう。なら、なんのために?
グリーンは自室にこもる前に作った、干川と同じ装置を取り出した。
思い浮かべればその人間の様子が見られる装置、仮に、グリーンはこれをマド、と名付けた。日本語で窓を現す言葉だ。マドに干川のことを念じると、円卓が見えてくる。
グリーンを除いた一同が介し、食事を囲んでいる。
「……馬鹿馬鹿しいっ」
人類の滅亡を前にして、何とのんきな、グリーンは呆れた。
こんな人間たちに、人類の存亡はかかっているのか。前までは自分さえ次の星で興味深い研究をできればそれでよかったグリーンの心が、変化していた。
ここまでの議論、思案、それを超えて、グリーンはあの会議自体を新しい実験の場ととらえるようになった。どんな人間を選出すれば、人類は存続するのか。せっかくそれが面白いと思ってきたところに、これだ。完全に水をさされている。これだから馬鹿は嫌いなんだ。
マドを放り、グリーンは久々にベッドに寝転がった。
椅子に座ったまま強張っていた体の緊張が一気に解けて、マットレスに体が沈み込んだ。いつもは研究を終えてこうすると達成感に満ち満ちて心が安らぐのに、まったく疲れは取れない。それどころかまとわりついている布さえ、煩わしく思えた。
どうして、自分の意見がないがしろにされなくちゃいけないんだ。ドアの向こうから聞こえてくる笑い声が、会話が、すべて腹立たしい。にも関わらず、次に訪れたのは空腹だった。
こもる前に作った食料は、すべて食べつくした。脳を使うと腹が減る。いつもよりたくさんの量を摂取してカロリーは足りているのに、胃は、まだ食べ物を求めていた。
グリーンは余分に作っておいた水を飲んだ。胃に、これ以上空腹を感じさせるなといらだちながら、たくさん。無味な水が空腹の腹に急に押し込められて、食道から何かが沸き上がる。
まずい、と思った時には遅かった。グリーンは口からあふれ出る水を抑え漏らしながら、部屋を飛び出して一同の共同トイレに駆け込んだ。
「ベイビー、大丈夫?」
駆け寄ってきたのは、アニータだった。先ほどまで食べていたものの匂いを思い切りさせながら、嫌味にも背中をさすってくる。グリーンは止まらない水を便器にうずめて吐き出しながら、そのみじめさに脱力した。
もう、ここから出れない。立ち上がれない。背後にあるであろう同情の目を、少しも見たくない。
「薬とか出してあげようか?おなかが痛いの?それとも食べ過ぎ?」
「黙れ!」
しゃがみ込みながら、高すぎる声が出た。顔が熱い。とんだ、辱めだ。
「俺に構うな!」
「そんなわけにいかないでしょ、家族なんだから」
「お前たちと家族になったつもりはない!俺に家族なんかいらない!これまでも、これからもそんなものはいない!」
すぐ後ろに、アニータ以外の誰かが来たのが分かった。続く声の冷たさで、それが自分の錬成した人間であることが分かる。
「そこを占拠されては、私たちの生活に支障が出ます」
グリーンは便器を握り締めた。みじめだ、自分が生み出した人間が、自分を見下すように見ているのだと思うと、まだ吐いても吐ききれない。
「俺を、俺をそんな目で見るな!」
「私の目を確認しないで、なぜそう言えるのですか」
「お前のその気味の悪い口調で分かるんだよ!」
「議論になっていませんね。実に感情的で、無意味な反論です」
「黙れ! 黙れ黙れ黙れ黙れ!」
なぜ、干川の拘束を解いた。なぜ干川と共に食卓を囲み、なぜ、自分がないがしろにされなくてはいけないのだ。グリーンは次々に不満を便器に向かって叫んだ。
誰もそんなグリーンに反論しない。もっともな意見だろう、グリーンは思わず笑った。
馬鹿は、自分に反論できない。そんなこと、許されない。自分の意見だけを聞け。そうして従え。自分こそ、最も正しい人間だ。自分の言うとおりに生きていれば、何も問題はないのだと。
「……さみしかったんですね、あなたは」
そう言ってグリーンの背中に、温かい手が触れた。
吐瀉が止まる。その手が、グリーンの腰に回って、抱きしめる。グリーンよりもずっと黒く細い腕、その腕の、強くも優しい力が、グリーンの吐瀉を、止めた。
「私は、あなたを愛します。今はまだでも、これから、時間をかけてでも、私たちはもう、一人で悩まなくていいんです」
グリーンは力なくピギを振り払った。そうして、便器から、コバルトブルーの部屋に体が向き直る。グリーンを見つめる一同の顔は、ただじっと、彼を見つめていた。
「何を…… 何を…… 馬鹿のくせに、偉そうに言うな」
どうして。どうしてそんな目で、自分を見る。まだ、かわいそうな人間を見る顔であったら、怒りに任せて振り払える。なのに、どうして、そんな、母が自分を見た時のような、期待がまだ自分に残るような、そんな子犬のような目をするんだ。どうして。
「俺は…… 死にたくない。お前らと違って、死んじゃいけない人間なんだ。後悔しないように戦う?アホか。本当の後悔は、戦って傷つくことにある。それを、どいつもこいつも、どうしてわからないんだよ」
「死んじゃいけないのは、どの人間だって同じよ」
ピギがもう一度、グリーンの肩に手を触れた。
「だから、私たちは、みんなを救いたいの。それには、グリーンさんの力がなくちゃ。あなたみたいに、私たちは賢くないから。だから、助けてほしい。あんたが必要なの」
「……ごめん、グリーン」
干川が続いた。駆け寄っては、またグリーンを怯えさせるかもしれない。ピギに心を開きかけたグリーンに畳みかけるように、干川は続けた。
「僕は…… 神さまの代わりをしなくちゃいけないと思ってた。だから、連れていく全員に疑問を抱かせないように、それで、自分も罪悪感を得ないように、考えた。だけど無理なんだ。どんな結論を選んだって、きっと俺たちは後悔する。俺たちは…… 人間だから。神には、なれないから」
干川だって、まだ確信を持てているわけではない。それでもわかるのは、自分が、ありさや、ピギや、アニータや、ブリジットや、そして、グリーンと。生きる方法を探すことが、自分たちの覚悟のあり方だと、この数時間で、ピギがグリーンにかけた言葉で、気づいたからだ。
「最後まで、悪あがきがしたい。誰も、グリーンのせいだとは思わない。それに、俺たちのせいにも、ならない。この星で生きるため…… 俺たちの生活を取り戻すために、戦いたい」
「どこまでもバカだな、お前は…… 」
「うん、そうだと思う」
「お前たちが死んでも、俺は逃げ延びるぞ」
「それでいい。それが、グリーンだろ。いちいちムカつく、グリーンらしい」
それが説得する人間の言い草か、と、グリーンは思わず笑ってしまった。彼が笑ったことで、張り詰めていた空気が緩む。
一同は顔を見合わせ、アニータがゲロッピちゃん、座りなよ、と円卓の椅子をすすめた。よろよろ立ち上がるグリーンに手を差し伸べたのは、ブリジットだった。彼女は椅子までグリーンにつきそい、そして、自分の席に戻り食事を摂り始めた。この騒動など、自分には関係ないような顔で。それにも、グリーンは笑えた。
「さすが俺が作った人間だ」
「吐かれている間は、食欲が失せていましたから」
一同もグリーンに続けて笑い、ピギがトイレのドアを閉めたのに合わせて、食事を再開した。
吐いたばかりのグリーンはアニータが出してくれた食事に手を付ける気になれなかったが、こんな無頓着な人間だからこそ、戦おうなどと愚かなことを言うのだろうと、自分の中で納得ができた。
「やるからには、絶対勝つ。俺は……負けるのも死ぬのも嫌だからな」
後悔の無いように生きろ。
グリーンは幼い時からこの言葉が大嫌いだった。
でも、彼らはこう言ってみせた。
後悔してでも生きよう。
グリーンの胸に、その言葉がスッとなじむ。それは彼にとって、納得のしきれない言い分であったが、不思議と嫌悪感は、抱かなかった。
■
グリーンが先導して、百人の選別会議が再開された。
怪物を倒せなくても逃げて、次の星を作るために生きる人間を選ぶ。
マドを使って、候補者の人格をチェックすることで会議は円滑に進んでいった。せめて、思い入れのある人間一人だけでも連れていく。子どもがいれば、ピギのように配偶者は置いてでも連れていく。
技術者の人数は極端に減ってしまったが、それでも、グリーンが自分がいれば補填は可能だと自信満々に言うことで、一同は安心して選別をつづけられた。
ピギは、やはりありさもつれていくべきだと、今度は断言した。そのかわり、自分の夫もつれていくとも。誰も反対はしなかった。干川も、今度はうなずいてみせた。
そして、改めて確認しあった。
一番は、怪物を倒すことだと。勝利して、ナヒレが現れる前の生活を取り戻してみせる。そうすることで、ナヒレを、この世界にとって不要なものにしようと。
だから、勝利したら、ナヒレは封印するとも決めた。こんな力があると知れば、せっかく守った世界が再び戦いに巻き込まれると思ったからだ。一同はそれにも合意した。
「本当に、それでいいんですね」
ジークは半ば呆れたような顔をしていた。
地球人は宇宙全体にとってみれば、まだ知能の低い生物だ。それなのにも関わらず、戦うことを選ぶとは。もし全滅して地球にナヒレと四人がとどまろうとしているのなら、命のバトンは途絶えてしまう。
それなら反対もしたが、形勢が逆転しなければ一人だけでも必ずナヒレを使って脱出することを約束したことで、ジークもようやく納得したようだ。
「怪物がやってくるまで、残り何日だ」
「およそ、七日」
干川が笑った。時間がなさすぎる。それでも、アドレナリンの出きった脳は、彼らから笑顔を引き出した。
アニータが絶対に勝つぞ、と号令をとった。
一同は手を重ねた。
戦うためには、ナヒレに四人が固まる陣営をとる必要がある。背中を預ける四人。裏切れば全滅。だがすでに、そんな心配はないと、それぞれが確信していた。生きたい。死にたくない。そんな弱々しい願いが、彼らを結び付けていた。
会議室には、アニータが描いた終末の絵が飾られた。
決戦の日、訪れる怪物。アニータの想像に過ぎない姿のまがまがしい怪物から、逃げる人々。そこに対抗する、ナヒレを囲んだ四人のヒーロー。いかにもアメコミらしいコスチュームに身を包み、逃げ惑う人々に背を向けて立ち向かう雄姿。
アニータはこれを『希望の絵』と呼んだ。
「このキモい怪物は、コックローチから取ってローチね」
「なんかそれだと弱そうじゃない?」
「コックローチは頭がなくなっても一か月生きられる最強の昆虫だ。妥当なところだろう」
「でもなんか、想像したら気持ち悪いわね」
「気持ち悪いなら、ちょうどいいんじゃないかな」
「ローチを、やっつけよう!オー!」
アニータが手を挙げると、一同も続いて、天に向かって手を挙げた。
ローチ襲来予測日前日。
干川は担当している百人分の星までの食料や水、衣服を錬成した。向こうの星についたときに使える掘削機などの機械は、グリーンが作った設計図を見ながら錬成した。デザインは少々グリーンの好みよりでミリタリー感が強めだったが、やはり頭脳があるのはありがたい、と干川は思った。
グリーンは怪物に対抗しうる武器や逃走のための車両を作っていた。ナヒレを四人で取り囲みながら移動のできる、運転の不要な車両。現在の地球の技術にはないものを作り出すのに、グリーンは設計図とにらめっこしてはうなっていた。
そのたび、アニータが横から要望を出した。火を噴け、ハイドロポンプだ!と。グリーンは疎ましそうだった。
アニータは干川達が着る戦闘用スーツの開発をした。アメコミヒーローが使っているような空を飛ぶものや、必要な武器などは、いろいろなコミックの知識があるアニータのほうが想像力が働いていい、という全会一致の判断によるものだ。
ブリジットは積み込む百人を迎えに行っていた。少しずつ人が集まっては、ピギがナヒレにより作った宿でケアを行った。中には人類滅亡を信じない者も多かったが、ナヒレを使ってみせると、顔色を変えた。
ジークも説明に加わってくれた。
少しずつ、宿の中には緊張感が満ち始めていた。ピギはそのたび、絶対に自分たちが守ると約束をした。連れていきたい人がいると訴える者もあった。予想通りの混乱を、ピギは何度も泣きそうになりながら対応した。
■
こんなものか、と干川は一週間分の物資を見て一息ついた。足りなくなれば、移動中にでもナヒレで錬成はできる。積み込む方法はジークから教えてもらった。スマホでスワイプするように、ナヒレに運べばいい。
人間もこれと同じで、干川達だけは、ナヒレに入るイメージをすることで乗り込むことができる。中の様子は干川とグリーンで調べた。しっかりと足が床について、気温も適温。どこまでも続いて見えるような大きな空間だった。干川はそこに百人分の部屋を作り、家具をそろえた。これで長旅も安心だ。
干川は部屋を出て、ピギのいる宿に向かった。
家族のいる者は固まって縮こまり、恋人同士は手を取り合っている。一人で来たものは、同じように一人で来たものに挨拶と、不安な心を共有している。
干川は広い宿を見回し、隅から隅まで見た。だが、彼が探す人が、どこにもいない。
「恋人なら」
干川に脈絡なく声をかけたのは、リンゴをかじっているブリジットだった。また食糧庫から勝手に盗んできたのだ。ブリジットは燃費が悪く、その美しいボディラインに似合わないほどしょっちゅう食事を摂っている。
「まだ声をかけに言っておりません」
「えっ。どういうこと?」
ローチの襲来は明日だ。百人はもうとっくにそろったと思っていたからこそ、干川は物資づくりに集中していたのに。胸がざわついた。
「まさか、彼女は拒否したのか?」
ブリジットには干川からありさへの手紙を預けていた。
彼女は信じなかったのか?それは無理もないが、世界中から百人近い人間を連れてきた。ネット上で話題になっていれば、ありさだってこの事態が現実味を帯びていることくらいは、判断できるだろう。
「ピギさんが、彼女は迎えに行かなくていいと」
「ピギが!?」
信じられなかった。ピギは、当初から干川に彼女を連れていけと言ってくれた人だ。だが同時に、ブリジットは嘘を吐かなかった。嘘を吐く利点がない、こんなことを言えば、干川が怒るのは分かっている。それならば、彼女の言葉は真実ということだ。
干川は慌ててピギを探した。
すっかりおとなしくなった乗客たちの中、彼女は家族のもとにいるはずだ。七人家族が入る、比較的大きな部屋のある区域。干川はドアを乱雑にこじ開けた。
「ピギ!」
びくっと、中にいる子どもたちが飛び跳ねた。鬼の形相に見えたのだろう、子どもたちはベッドの陰に隠れ、ママ!とピギを呼んだ。慌てた足取りで、どうしたの、とピギが干川の背後に立つ。
「どういうことだピギ!」
つかみかかった干川に向かって、子どもたちの非難の声が浴びせられた。彼女が子供たちにプレゼントしたおもちゃが、干川の背中に次々にぶつかってくる。でも、干川はそんなことには気もとめず、血走った目で彼女を睨む。
「どうして、ありさが来てない」
ピギは力強く肩を握られ、バクバクと脈打つ心臓と、目の前の干川を落ち着かせるために深く、息を吐き、吸い込んだ。
「……あなたが、自分で彼女に話すべきだと思ったの」
「え?」
「ブリジットに預けた手紙。読んだの」
ぶしつけでごめんなさい、気になったの、とピギは続けて謝った。
今回のローチ襲来のこと、ナヒレのこと、そして、地球を守るために戦うこと。もし負けたら、すべてを捨てて一緒に逃げてほしいこと。長々と、干川はありさにメッセージを送ろうとしていた。もしありさが拒否しても、強引でもいいからブリジットに連れてきてくれと、頼んだ。
ピギも、それは聞いていた。
ありさだって、干川のように築いてきたものがある。それは、分かっている。でもこの事態だ、すべて飲んでくれと、なるべく冷たく見えないように、言葉を選んだ。なのに。
「あの手紙で、ありささんは来てくれるかもしれない。でも、本当にそれでいいの?」
「どういう意味だよ」
「もう、会えないかもしれないの。負けたら、私たちは逃げるって決めた。百人を連れて、新しい星に。でも、私たちは、戦いに行くのよ。何があるか、分からないのよ」
ピギは自分の肩を抑えたままの干川の手に、優しく自分の手のひらを重ねる。グリーンに拘束され、部屋に閉じ込められたときと同じように、彼に、諭すように。
「必ず生き延びられるって分かってるのは、九十七人」
「……!」
「グリーンさんが言ってたでしょう。ローチの攻め方によっては、一気に自分たちがまきこまれるかもしれないって。そしたら…… 一人だけでも、ナヒレを持って、逃げる必要があるって」
干川達は、この六日間作戦会議を必ず朝、行ってきた。
その時に決めた。四人でナヒレを囲んでローチに立ち向かう。ピギは防御、グリーンが武器を錬成。干川とアニータは、ローチに向かって攻撃を仕掛けようと。誰かがやられたら、その役割を一つずつずらす。グリーンまでやられたら、最後だ。
ピギはナヒレに飛び込んで、逃げろと、言われた。
グリーンが自分を犠牲にする提案をしたことに、干川は驚いた。一番最初に逃げると思っていた彼は、少し笑って言った。「俺が作った人間なら、俺の代わりができるだろ」と。自分の功績が後世まで残るのであれば、地球の外にそれが広がるなら、恐れるものは何もない。人間は、自分は、生きていたらいつか死ぬのだから。
怖いのは、自分が生きていた証が、残らないこと。だから、グリーンは武器を作りながら、合間を縫ってブリジットにさらなる知識を与えた。
必ず生き残れるのは、ピギと、九十六人。最初に死ぬかもしれないのは、ほかの人類か、干川、アニータ。ピギは、そのことを言っているのだ。
「最後になるかもしれない言葉を、誰かに預けちゃダメ」
「それは…… アニータだって」
ピギはうなずく。アニータにも同じことを言ったと。でも、アニータは頑なにブリジットに言ってくれるように頼んだ。母の顔を見たら、戦いに行く決心が揺らぎそうだから。母の胸に抱かれて死にたいと、怯える心の芽が生まれそうだからと。
「干川さんがアニータさんと同じなら、私は何も言わない。でも、考えて。誰かに任せっぱなしじゃなくて、自分で。まだ、今日が残っているなら」
ピギは自分のポケットから、干川がブリジットに預けた手紙を取り出す。もし干川の作業が終わらなければ、あきらめてブリジットに行かせるつもりだった、と加えるようにしてピギは言った。
「でも、間に合ってよかった」
重ねていた手のひらを、ぎゅっと握って、ピギは干川を見つめた。
「行ってきて、干川さん。悩む時間は必要かもしれないけど、私は、行くべきだって思うから」
ピギは自分の肩にある干川の手に、押し付けるようにして手紙を託した。
ピギは怯えていた子供たちに駆け寄り、彼らを抱きしめる。先ほどまで強張っていた子供の顔が、彼女の体温で緩んでいった。あんな顔を、ありさは向けてくれるだろうか。干川が手紙を持つ手が震えた。
ローチ襲来まで、あと一日。