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【ナヒレ決議】第九話 叱咤・馬鹿・狼狽

 世界はいつも通りに日々を過ごしていた。百人が行方不明になったことでさえも、世界中に散らばってしまえば些末なものだと言うように。

 窓に映るありさも、いつものように仕事をしていた。大手ゼネコンの会議室に座る彼女は、干川の失踪を悟らせないほど、凛としている。ありさは、前を向いて歩こうとしている。自分がいてもいなくても、ありさの日々は続いていくと、分かっている。

 自分が目の前に現れ、彼女の手を取れば、その覚悟を壊してしまうだろう、と干川は思った。一度は決めたはずの、彼女を何としてでも連れていくという覚悟がぐらぐらと揺れる。
 ブリジットには、無理やりにでも連れて来いと言ったくせに、自分はどうして、こうも弱いのだろうとあきれてため息も出ない。

 会議が終了し、彼女は見送られながら建物を出た。人通りはあるが、彼女が一人になった。出るなら今だ、彼女のもとに行くのなら……。ナヒレに手をかけたまま、干川は固まっていた。

「武器の生産はまだ足りないんだ、早くしてくれないか」

 グリーンの冷たい声が、部屋に響いて干川ははっとする。

「ごめん、先にやってくれても」

「そこでウジウジされてたら集中できないんだよ」

「……」

「行けよ、どうせお前は、行くんだから」

 グリーンは干川の手首をつかんでナヒレに押し付けた。ピギと同じことを、お前も言うのか。干川は手紙を片手に握りしめたまま、逃げることができない状況に立ち尽くしていた。

「……拒まれたら?」

「それでも連れてこい。そうじゃなきゃ、お前は集中して戦えない。暴れたら閉じ込めろ。お前はそのくらいの覚悟をして、俺に銃を向けたんだろ」

 グリーンの手が、干川の手首を痛いほど強く握りしめる。

「俺の命を脅しに使おうとした責任をとれ。俺はまだ、完全に許したわけじゃない」

「……」

「行け、干川穣」

 グリーンが自分の手で、ナヒレに念じた。窓に映ったありさの姿で、思い浮かべる場所はグリーンにも分かっていた。

 コバルトブルーの部屋にドアが現れる。目の前にありさが待つ、魔法の扉が。

「行けよ、弱虫!」

 グリーンが思い切り干川をドアに叩きつけようと、腕をひねった。だが研究室にこもりきりの非力さでは、干川の体を、ドアまでは届けられない。一歩、二歩とよろけた足で、干川は、ドアから少し離れた場所に立たされた。

 ありさに会わなくなって三か月。自分は、変わったんだろうか。いい方向に変わっただろうか。変わったとしても、その自分をありさは、変わらず、愛してくれるんだろうか。

「俺は愛なんて信じない」

 背後からグリーンの言葉が届く。
 グリーンはナヒレから手を放し、武器を作る手を止めて、今は干川のゆがんだ背中を見つめていた。

「俺は愛なんて、信じない!連れて行かなきゃ支障が出るなら、そいつを連れていく。それだけだ。佐伯ありさは、お前の攻撃を緩めさせないために必要な人間なんだ」

 干川の固まりきった手が、少し動いた。
 そうだ、と干川は心の中でつぶやいた。ありさが自分を愛さなくても、ありさを置いてはいけない。これまでの自分を支えてくれた彼女を、愚痴ばかりで、けんかっ早い彼女を置いて、生きてはいけない。彼女が自分を愛さなくても、自分は、干川穣は、彼女を愛しているんだから。

 肺が重い。息が吸いづらい。それでも干川は深く酸素を血に巡らせて、足を動かした。一歩、二歩、干川の進んだ先は、ナヒレの前だ。

「おい、俺の話を聞いてたのか」

 干川はナヒレに手をかけた。念じた先は、二人の場所。ありさと過ごした、大切な場所。

 久々に包丁を握っても、そのやり方は忘れていなかった。小さいころに乗った自転車が、大人になっても変わらず乗れるのと同じだ。職人レベルを求めなければ、たいていのことは、昔の記憶から取り出せる。ありさがいつも帰宅する時間までに料理をそろえようと思ったけれど、まだまだ準備はできていなかった。

 もうそろそろ、ありさが玄関に近づき、鍵を取り出す音が聞こえてくるはずだ。神社で「ダサい」と言いながら買ってずっとつけている鈴の音。干川が先に帰ったときは、この音を聞いて玄関まで彼女を迎えに行った。

 テーブルには二人が付き合ったばかりのころと同じくらいの品目が並んでいた。言ってしまえば、最後の晩餐。嫌な予感を助長するものではあったけれど、それでもありさと久々に囲む食卓なのだから、少しくらい贅沢でもいいだろう。盛り付けがうまくいかなかったものは、自分の側に置いた。
 箸を出すのを忘れていた。食器棚に手をかけると、いつもの音が換気扇から聞こえてくる。干川は台所に取り出した箸置きを置いて、玄関へ歩いた。

 気持ちだけは駆け寄りたさでいっぱいだったが、うまく足が動かない。緊張しているのだ、と分かった。
 慌てるように鍵穴が回された。電気がついているのを見て、戸惑ったのだろう。開いたドアからのぞいたありさの顔は、青ざめて、血の気がなかった。

「ゆず…… ?」

 半信半疑。願望も込めた呼びかけを、ありさは干川に投げる。干川はその声で、彼女が自分を待ってくれていたことを悟った。
 固まった足が動き、彼女に駆け寄る。大手を広げてピギとその夫のように抱きしめようとした、その時だった。玄関に、乾いた音が響いた。

 真っ赤になったありさの顔が、涙をはらんでいた。はたかれた頬をおさえ、干川はもう一度ありさを見た。

「どこ行ってたのよ!」

 干川が答えようとする前に、ありさは何度も何度も、干川の胸を叩いた。うつむいて、頭を胸に押し付けるように、何度も何度も。喧嘩をするときのいつもの素振りで。痛みよりも、いつものありさが目の前にいることが干川はうれしくて、思わず彼女を力強く抱きしめた。

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「ごめん…… 」

「ごめんじゃ…… わかんないよ、馬鹿」

 ありさは抱きしめ返してくれなかった。ただ干川に抱きしめられるがまま、静かに泣いた。

 戦闘用スーツの配色はヒーローのようにビビットカラーでそろえた。グリーンはグリーン。これはお決まり。干川は青で、アニータは赤、ピギは紫。
 それぞれの戦闘配置に合わせて、機能も搭載した。

 自分の分をフィッティングし、アニータは鏡を見つめる。念じれば飛行できるスーツに、両手にはガトリング砲。弾を装填しなくてもナヒレから直接錬成できるよう、グリーンの設計が組み込まれている。
 ぴっちりと体に合うスーツは、アニータのきゃしゃな体をパワーアップさせれくれたように思えた。

 ブリジットから、母と兄を連れてきたと言われた。
 最初は助ける気はなかった兄だったが、母が悲しむと思って、そうした。

 ズールイもすんなり来てくれた。
 一緒に戦ってくれるとズールイは言ったけど、それは拒んだ。ヒーローは絶対帰ってくるんだからと笑ってみせたが、本当は、目の前でズールイがやられるのを見たくなかっただけだ。ローチに立ち向かう人数は多いに越したことはないけれど、干川達もアニータと同じように、自分たち以外の人員を増やすことは求めなかった。

 せっかく選んだ九十六人も、置いていく七十億人の誰も、巻き込む権利はないと、それぞれが分かっていた。

「パーン、プシュルルルー」

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 鏡に向かって、攻撃するふりをする。声が壁に吸い込まれるように、すぐ消える。ピギにも着てもらわなきゃ。アニータは全員分のスーツを抱えて、部屋を出た。

 宿にはたくさんの人たちがうごめいていた。スーツを着たままやってきたアニータを、みんな物珍しそうに見つめる。これだけでヒーローになれたようだと、少し高揚する。子供たちに手を振り返す、挨拶を交わす、ピギの居場所を聞く。

 その時だった、視界の隅に、見覚えのある不安そうな顔があった。

「ママ……」

 ブリジットに、会いたくないと伝えていた母が、アニータに駆け寄って、抱きしめてくる。

 言われることは分かってる。戦うな。それが、彼女が自分を抱きしめる強さだけでわかる。

「ごめんママ、急いでるから」

 アニータはわざと突き離すように母から離れて走った。

 心臓がどきどきした。高揚したのとは違う、嫌なうごめき方だ。体の中にモンスターがいるようで気持ちが悪い。今すぐ叫びたい。でも、アニータは走った。

 廊下の角で、子どもたちとぶつかった。ひっくり返った一同に駆け寄ったのは、ピギだった。

「大丈夫!?」

「ごめん……。スーツ、届けに来た」

 泣きそうになっていた子供たちが、掲げられたスーツを見て、自分たちのはないのかとアニータにまとわりつく。また今度かっこいいの作ってあげる、と言いながら、ピギを連れてバスルームに入った。

「顔……青いわ」

「壁が青いからだよ」

「何かあったの?」

「……いいから、着て」

 ピギは鏡で後ろにいるアニータをちらちらと確認しながら、スーツを着た。防御に特化したスーツだ。ダイヤモンドのように固く、手からはスーツと同じくらいの高度を持った防御壁が射出されるようにした。一度の射出で守れる範囲は半径1キロ。移動しながら、襲われる人たちにシェルターを作る。ピギの黒い肌に、紫のビビットカラーがよく似合った。

 この前のおしゃれもいいけど、この自分も新鮮だわ、と暗い顔のアニータを元気づけるように、明るく笑う。

「よかった。用事が終わったら練習して。場所はベイビーが教えてくれる」

「ええ」

「じゃあ……」

「待って」

 アニータはピギの制止を振り払ってバスルームを出ていく。
 取り残されたピギは、もう一度自分の姿を鏡で確認し、胸を押さえて深呼吸した。

 戦いが、始まる。現実味もない緊張感が、バスルームに満ちてくる。子どもたちを守る。絶対に、何があっても。

 アニータの暗い顔が心配だった。自分たちは共に戦う家族。なのに彼女は、今になって殻に閉じこもろうとしている。それは明日の戦いを揺るがすことになる。グリーンなら、彼女を叱り飛ばしただろう。でもピギには、あの顔以上に悲しい顔をさせられない。

 どうか、明日の戦いが、無事に終わり、家族の家に帰れますように。遠い地に暮らす友人ができてよかったと、この日々を思い出せるような日が、来ますように。ピギは久々に祈った。信じなくなったはずの神に、明日こそ救いをと、これまで恨んだ自分を謝った。

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