【ナヒレ決議】第十話 決意・焦燥・出発
寝静まった宿の前で、ブリジットは夕食を摂っていた。アニータの母を連れてきたときに、いつもありがとうともらったものだ。いつも、というほど彼女と関わった気はなかったが、美味しそうな湯気にブリジットは手を伸ばした。
ラザニアだ。アニータもよく、ナヒレで出してくれた。同じ味が、ブリジットの口の中に広がった。
肝心の彼女はラザニアを受け取らないまま、射撃練習に向かってしまった。グリーンにスーツを渡すよう頼まれたが、彼もそれどころではないらしい。ブリジットはラザニアを飲み込み、もう一度グリーンに声をかけてみようと立ち上がった。
いつでも会議室に入れるようにしたドアを開く。グリーンは憔悴したように座っていた。円卓の上に転がったナヒレが、気泡を揺らして静かにグリーンを映している。
「遅い」
「さっきは邪魔をするなと言いました」
「そうじゃない、干川だ」
「まだ帰ってきていないのですか」
「もう夜だってのに、何を悠長にしてるんだ」
「武器は」
「さっき準備を終えた。これ以外はローチが来てから、対策を考えつつ錬成する」
会議室に積みあがった銃を、一つブリジットは手に取った。彼らがローチと交戦中は、ブリジットが宿を守る。
「私のスーツはないんですね」
「お前は宿と一緒にナヒレの中に入るんだから、必要ないだろ」
「戦い中にナヒレの中がどうなるかわかりません」
グリーンはため息をついて、自分と同じ型のスーツを出した。
「色までおそろいですか」
「嫌なら着なければいい。色の指定をしなかったのはお前だ」
ブリジットはグリーンの視線も気にせず、目の前で着替え始めた。いつもなら戸惑って大騒ぎするグリーンは、ナヒレを見つめて呆然としている。
その時だ、突如、電子音が部屋に鳴り響いた。
我に返ったグリーンは、音の方向が干川の部屋であることに気づき、慌てて円卓を離れる。
『グリーン、ドアを開けてくれ』
干川の声だった。
グリーンは受話器を放り投げ、マドで干川の位置を確認。彼の横に立つ女性が、おそらくありさらしい。グリーンはナヒレを使ってドアを錬成した。
「信じられない」
ありさはコバルトブルーの部屋に立つグリーン、ブリジット、そして大量の重火器を見て目を見開いた。干川の裾を握り、食べ物の匂いをさせている。
「悠長にそっちで飯を食ってたのか」
「ごめん、必要だったんだ」
「ブリジット、そいつは宿に連れてけ。俺たちはスーツの実験がある」
グリーンは円卓に置かれた青のスーツを干川に投げつけた。
無表情のブリジットが「こちらです」と先導するのについて行きながら、ありさは何度も不安そうに干川を振り返った。干川のように意気地がなさそうな女だ、とグリーンは思った。
「何があっても暴れないだろうな、あの女」
「大丈夫、そういう子じゃない」
干川の声が、まっすぐグリーンに飛んでくる。この部屋を出た時の弱い男は、もうどこにもいなかった。
「絶対に、勝ちたい」
「……違う、絶対に勝つんだ」
もう少しで朝が来る。未知の怪物が、人類を狙って、やってくる。
■
アニータがいる実験場は、真っ新な砂の大地だった。地平線まで生物の気配がない場所に向かって、アニータは弾を撃っていた。
「お前、何時間練習するつもりだよ。もう十分やっただろ。あとは体力が削れるだけだ、戻れ」
「うるさい」
「なっ……」
「撃ちたい気分なの!」
そう言って、また新たな弾が撃ち出される。砂煙をそのまま地平線の向こうまで道連れにする弾は、おそらくこの世の兵器の何よりも強力だ。干川のスーツにも同じものがあるのか、と恐ろしくなった。撃ち方を間違えれば、無駄な命まで奪ってしまいかねない。なるべく市街地に現れることはよしてくれ、と、まだ見ぬローチに祈った。
「操作方法は?」
「頭でイメージすれば撃てる。ナヒレとおんなじだよ」
「ノーモーションで爆撃可能。どうやってもスピード勝負になるからな」
グリーンが空に向かって弾を撃ち込んだ。薄く広がっていた雲が弾圧で吹き飛ばされる。
「衝撃もないな。成功だ」
一発だけでわかるのか、と言いたかったが、言い切る前にグリーンは部屋に戻ってしまう。絶対的な自分への信頼。アニータとは正反対ということか、と干川は未だ何発も発射するアニータを見て思った。
「アニータ、コツを教えてくれないか」
「コツ?」
「弾道がそれるとか、ないのかな」
「ないよ! とにかく死ねって思って撃ち込めばいいの」
物騒な言葉に、干川は思わず戸惑った。グリーンが言うのなら気にならない。それにしても、こんな乱暴な言葉をアニータが使うのは、初めて聞いた。
「準備が終わったのに、なんでずっとスーツ着てくれなかったの」
「ああ……ごめん、ちょっと出かけてたんだ」
「ヨユーだね、さすが」
皮肉だと思った。今日のアニータの言葉には、とげがある。
「何かあったのか?」
「何もない奴なんて今はいないでしょ」
「それ以外にも何かあったのかって話だよ」
「……どうして?」
アニータの砲撃が、今度は空を突き抜けた。グリーンの真似をしたのだ。空の雲はもう掻き消えて、真っ暗な空に、星踊る空へ、弾はどこまでも飛んでいく。
「冷静じゃない」
「明日戦うのに冷静なはずないでしょ」
「……この前の俺に似てる」
アニータがもう一発撃とうとした弾が、暴発して彼女を吹き飛ばした。
「アニータ!」
腕を抱えてうめくアニータに駆け寄った。だが、差し伸べた手は振り払われる。アニータはうずくまったまま、月に照らされた砂を見下ろし、固まった。
「……怖い」
砂の一部が、丸く、黒ずむ。アニータの目から零れ落ちる熱い泉が、砂地を潤す。
「怖いよ……」
干川はもう一度、アニータの横にしゃがみこんで、彼女を抱きしめた。
アニータはぽつぽつと、母に会ったこと、母に冷たくしたことを説明した。今優しくされたら、死ぬのが怖くなる。だから、いじわるしたんだと、泣き続けた。
「死ぬのが怖いのは、当然だろ」
「分かってる……」
「アニータのお母さんだって、そうなんだ」
「分かってるよ……!」
干川はスーツを少し開いて、中から良い音のするものを取り出した。ありさがカギにつけていた鈴。二人の思い出の品。ダサい、お土産。
「会って来た。俺も、ありさに」
「……」
「そんで、預けられた。絶対返せって、言われたよ。生きて帰れないかもしれないのに」
帰って来いってことなんだ、と干川は苦笑した。彼女は少しの疑いと、もっともっと大きな信頼を、干川に預けた。干川の手を、ありさは取ってついてきた。
「だから俺は帰らなくちゃ。ありさは怒ると、怖いんだ」
「ママもだよ……」
「そっか」
アニータは深呼吸をしながら、顔を上げた。まばゆい星が彼女のうるんだ瞳に映って、キラキラと輝いていた。
「でも、帰れないかもしれない」
「うん」
「だから、最後に話したことが喧嘩じゃ、悲しいよ」
「うん……」
アニータは涙を拭わなかった。
母から小さい時習ったのだ。泣いたとき、強くこすったら、明日目が腫れてしまうよと。アニータはそれを信じて、泣いてもいつも、その涙をこすって落とさなかった。
東の空が明日を運んでくる。ずっと来てほしくなかった日を、ものすごいスピードで、連れてくる。
■
草が朝露で濡れる頃。あたりが薄明るくなったのを見て、干川達は再び会議室に集まった。
どこにローチが飛来するかは不明。不安で宿の外の様子を見ようとする面々を、ブリジットが抑えているそうだ。
「いよいよだな」
「ええ」
「あー、心臓がずっとバクバクしてる」
「ラザニアの食べすぎだろ」
「うるさい」
「じゃあ、行こうか」
干川の号令で、一同はナヒレを持って会議室を出た。宿の前、ブリジットがいつものように仏頂面で座っている。
「呼んできてもらえるかな」
「はい」
ブリジットはのろのろと立ち上がって、宿に入っていく。人が出ていかないように、干川達が代わりに見張る。
彼らが呼び出したのは、自分たちの大切な人。グリーン以外は、それぞれ決めていた。
最初に宿を出てきたのは、ピギの家族だった。子どもたちは眠たい目をこすりながら、オドゥオールに優しく背中を押されて出てきた。
「おはよう」
「おはよう……」
ピギはオドゥオールにそう言った後、子どもたちの頭に一人ずつキスを送る。五人の子どもたちにキスを送った後、オドゥオールを抱きしめる。何事かと、子どもたちも分からないながらも続く。
「愛してる」
「俺も、愛してる」
「みんな、愛してる」
今度は全員で、七人で、ピギは家族を抱きしめた。子どもたちの小さくても大人よりずっと熱い体温が、彼女を包む。
次に出てきたのは、アニータの母と、兄、そして、ズールイだ。ズールイはまごまごと入り口で立ち尽くす母と兄を気遣い、自分が先に、とアニータの前に立った。
ハイファイブ! とアニータが笑い、二人は手を叩きあう。抱きしめあうと、ズールイはそのスーツ超イケてるよと笑ってみせた。アニータは笑い返し、ズールイにキスをした。予想もしなかった行動に、ズールイがきょとんとするのを、さらにアニータは笑ってみせた。
「ありがとう。これからは彼氏でいいよね」
「えっ」
「命の恩人のお願い、聞けるでしょ」
ズールイは口をパクパクさせた。嫌そうには見えなかったけれど、混乱していた。馬鹿、とアニータは笑い、宿に向かって押し出した。見ていた兄が、宿にズールイと一緒に戻ってしまう。アニータは苦笑した。
「やっぱりお兄ちゃんを連れてきたのは間違いだったね」
「アニータ……」
「嘘、冗談だって」
昨日とは違い、アニータは母に笑顔を送った。
「愛してるよ、ママ」
その温かい声で、母の涙腺が壊れてしまった。彼女はうずくまって嗚咽を漏らし、アニータは強く母を抱きしめた。何度も愛してると言い、額にキスをして。
「行ってきます、ママ」
「アニータ、やっぱり私は」
「行ってらっしゃい、って言ってよ」
「でも……」
「一人暮らしした時もおんなじ顔してた」
「それとは、全然違うわよ」
「おんなじだよ。あの時だって、すぐにズールイに出会えた。危ないとこに一人なんてって言ったけど、いつのまにかズールイがカツアゲされるのを、私が守ってた。強いんだよ私」
「……」
「それにさ、今度はなんと、すでに友達がいるんだ」
アニータは干川達を指して、再び、母を見つめる。
「すごく頼りになる友達が、一緒に戦ってくれるんだ。だから、だからさ。行ってらっしゃいって言ってよ、ママ」
それでも、母は泣いていた。アニータは母の涙をぬぐった。明日腫れちゃうけど、まあいいよね、と笑って。
「ママ……これが最後かもしれない。頑張るけど、これが最後かもしれない」
「いやあっ……!」
「だからっ、だからママ、笑顔で送ってよ。そうじゃなくちゃ、泣かせちゃったなあって思ったら私、ローチに立ち向かっていけないよ」
いたずらな笑顔を作って見せた。アニータだって、泣きたかった。でも、母の頬を無理矢理指で突き上げて、偽物の笑顔を交わしあう。
「行ってきます、ママ」
「……ううう」
「行ってきます!」
「行って……らっしゃい……」
アニータは母の顔を確認するよりももっと早く、母を強く抱きしめた。
「行ってきます」
何度も何度も、アニータは、震える手がばれないように強く母を抱きしめて、挨拶を送った。
最後に、ありさがやってきた。ずっと寝れなかったんだろう。彼女の顔にはくまが浮かんでいた。戦闘服姿の恋人を、やっぱり信じられない顔で見つめて、手を取った。
「ひどいよ、ゆず。二回もお別れされたら、私、吐きそう」
「ごめん」
「ひどいよ……」
「顔が見たかった」
干川は、ありさの手を取って、彼女を目に焼き付けた。化粧は女の武装だよ。そう言っていた彼女のまっさらで不安そうな顔が、干川を見つめていた。
「愛してる」
「こんな時に、言ったことないこと、言わないで」
干川は笑って、二度、ありさの頭を優しくたたいた。
干川の背を見送りながら、ありさは待ってる、と叫んだ。
どうしていいかわからなかった。どこかの映画で見た、手を挙げて去る挨拶をしようと思ったけれど、干川の体は思わず振り返った。
「帰ってくるから」
格好のつかない裏返った声で、干川は彼女に、約束した。