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【ナヒレ決議】第七話 未知・開口

 アニータは自室で、絵を描いていた。

 まだ見ぬ、地球に飛来する怪物。彼女の想像の中で、それは、黒々しくて、目がたくさんあって、足も、触手のように伸びて襲うような、まがまがしい物体。人間たちが、泣き叫んで安息の地を求めて駆け出している。

 安息の地なんて、この地球上にあるのか?

 そんな不安と期待と、絶望が、すべて混ざった人間の顔は、どんなだろう。少なくとも、アニータには逃げる場所があった。新しい星。

 そうなると彼らの顔が実際どうなってしまうのか、想像はつかない。これまで見てきたヒーロー映画のエキストラにも、できない顔だろう。きっと、見たこともない恐怖だろう。

 アニータは絵の具を塗りたくったキャンバスを見上げて、ため息を吐いた。

 干川の意見に乗っかるべきだと思ったのは、本心だ。単純に憧れだけでものを言ったわけではない。ナヒレがあるから、恐怖がマヒした。見たこともない神の産物に、人類は救われるのではないかと期待した。

 しかし、彼が銃を手にしたのを見て、本当に戦うことが正しいのか、分からなくなった。百人をただ連れていくだけだと言った時は、喧嘩はしても互いを身体的に傷つけるような機会は訪れなかった。傷つくのは、心だけ。それでも、五体満足で、未来さえあれば、きっと生きていける。
 なのに、干川の思い付きによって、その希望に翳りが見えた。

 新しい星でも、ああいった傷つけあいが起こるかもしれない。
 アニータは絵の具を混ぜるパレットを何度も筆でこする。絵の具はどんどん、どどめ色になってパレットにこびりついていく。

 誰が正しいなんて、こんな事態に誰もなったことがない以上、分かるはずがなかった。グリーンも干川も、正しくない。でも、その代わりにアニータが提案できることも、まだない。

 この膠着状態が続いている間に、怪物が訪れる日になったらどうするのか?中途半端に選ばれた人間たちと、対策を持たない自分たちで、新しい星で生きていくことができるのか?アニータにはわからなかった。

 グリーンも、あの日から自室にこもったままだ。会議は、止まっていた。

 世紀末の話は、いつもコミック信者の仲間としていた。
 ある日、隕石が落ちてきたら。ある日、火山が噴火したら。ある日、強力な宇宙人がやってきたら。その時はヒーローがやってきて、人間たちを守ってくれる。自分がもしヒーローであったならこう戦う、こう守る。いくらだって話してきた。

 なのに、いざとなると、そんなのはあくまでも妄想でしかないのだと思い知らされる。

 アニータが憧れたヒーローは、いつも自分の命を賭けて人間を守った。どうして? 怖くないのか? 怖がってそれを乗り越えていくヒーローはいくらだっていたけれど、自分がその恐怖をどうしたら乗り越えられるのか、分からない。

 母が死ぬのは嫌だ。でも、自分が死ぬのは、もっと、彼女を守りたいと思う気持ちよりも、想像できないくらいに恐ろしかった。

 小さい時、叔母が死んだ。葬式中は兄と蝶を追いかけまわして遊んでいたけれど、埋葬になって、母に怒られて棺を囲まされた。顔の部分の扉を閉じられて土の中に埋められていく叔母を見て、アニータは泣き叫んだ。

 叔母が死んだことが悲しかったのではない。いつか自分もそうやって埋められてしまうのだと思うと、怖かったのだ。

 怪物はどうやって人間を殺すのだろう。一瞬で、意識しないうちに殺してくれたらいい。仲間の中にはそうやってモンスターを考えた者もいたが、本当にそれは、死の恐怖を軽くしてくれるのか?その時間まで生きていた意識が、そうなった瞬間、どこに消えてしまうのか?
 想像するだけで、手が震えてくる。胃が冷たくなってくる。

 口の中が、苦い。のどが渇いていた。アニータは部屋を出て、ナヒレに向かう。水を一口飲み、息を吐く。
 半分開かれた干川のドアから、ピギと干川が静かに話す声が漏れていた。

 何を話しているのか、小さな声すぎて聞き取れない。
 コップを持ったまま、干川の部屋を覗いた。壁を見つめるようにして、二人とも隣り合って座っていた。

 身を乗り出しすぎたのか、少し、ドアが動いた。
 すぐに干川とピギの視線が集まったのに慌てて、ピギは、どうも、と苦笑する。

「何話してるのかな~って、思ってさ。いや、すぐに声かけようと思ったんだよ?」

「嘘ですね」

 声がした方向を慌ててアニータが振り返ると、ブリジットが立っていた。

「恐る恐る近づいたところを見れば、興味津々であっただけ、というのが妥当です」

「ブリちゃん、そういう指摘マジでいらないから!」

「かなり奇妙な動きでしたよ」

「もー!」

 二人のやり取りを見て、ピギが笑ってドアを全開にして招いた。
 干川は、ピギに謝ってくれたのだと言う。自分が冷静でいなかったことを、後悔していると。
 話せない状況ではないようだと分かって、アニータも安心して干川の部屋に足を踏み入れた。

 拘束具をつけて彼を押し込めた時にも思ったが、殺風景な部屋だ。ベッドと電話以外はなにもない。安いシティホテルのようだ。

「こんなとこで引きこもってるから、考え詰めちゃうんだよ!もっと楽しい気持ちにならないと、ダメ。私の絵を持ってきてあげる」

「……ありがとう」

「家具的にはそうだなあ、寒色系?いやそれじゃあポジティブにならないか。あえてショッキングピンクとかどう?」

「アニータさんの絵ってどんなのなの?」

「あれ?見せたことなかったっけ?」

「おうちにも、飾ってなかったから」

「じゃあみんなで私の部屋に…… 」

 言いかけて、自分が先ほどまで世紀末の絵を描いていたことを思い出す。あんなものを見せたら、せっかく和んだこの場の空気が壊れてしまうかもしれない。

「アニータ?」

「今度、部屋から持ってくるよ。次の星には、持っていけないけど」

 ピギは彼女の作り笑いを、初めて見た。いつもは歯をむき出しにして笑うのに、今は漫画の絵のように、口角を上げただけの、ひきつった顔だった。

 何か、部屋に隠したいものがあるのだ。オキニィもいつもそうだった。何か物を壊した時は、いつも文句ばかり言うのに、その日はテンションが高いのだ。だからすぐに、畑に隠されたものを、ピギは見つけ出せた。

「アニータ、何か隠していますね」

 だが、アニータの作り笑いをピギより先に、ブリジットが指摘した。

「え、やだなあ、なんで?そんなわけないじゃん。私たち、家族でしょ」

「理由を聞くのは、それが正解であるからです」

「言ったって意味ない」

「意味なくなんかないわ。アニータさんがそんな顔だと、私たち、心配になっちゃう」

「……空気ぶち壊しにしちゃうもん」

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 アニータはうつむいたまま、もうここを動かないと主張するように、座り込んだ。一同の視線がアニータに集まる。彼女が、次に口を開くのを待つように、誰も口を開かない。

 アニータもそれに気づき、余計いたたまれなくなった。座らないで出ていけばよおかった。部屋に鍵をかけてグリーンのように閉じこもればよかった、後悔でいっぱいだ。

「……全然、ポジティブに考えられなくなったの」

「え?」

「次の星がどんな星になるのか、そう考えてるときはまだマシだったのに、今は……違うんだよ」

 アニータは、一同の反応が返ってくる前に続ける。

「死ぬのが怖い。でも、何もしないで逃げるのも怖い。できるのに、しなかったら、ずっと私……嫌な気持ちで次の星に行くことになると思う」

 彼女の手が、ぎゅっと繋ぐように握られる。これでアニータからの話は終わり、という合図だと受け取って、干川は考えた。

「僕も、そう思った」

「干川さん……」

「アニータとはちょっと違うかもしれないけど、僕は、言い訳が欲しかった。ただ、自分たちのためだけに逃げるわけじゃないって、言い訳があれば、まだ、ほかの人たちを見捨てる罪悪感が、軽くなると思った」

「完全な自己愛ですね」

「仕方ないじゃない、私たちは、神じゃないんだもの」

「結論は変わりません。私たちには、逃げるしか方法はないんですから」

「変わるよ。甘えかもしれないけど、俺たちの気持ちは」

「きっと、連れていかれる人もそうじゃない人の気持ちも、変わると思うわ」

「必死に戦うふりで?」

「ふりなんかじゃない。本気で戦うよ。護るとなったら」

「でも、あなたたちは負けたら逃げると言ったじゃないですか」

 ブリジットは表情を変えず、宙に向かって言い放った。

 その言葉で、ピギとアニータはうつむいた。その通りだ、護ると言っても、負けないと言っても、自分たちはどこかで、抜け道を探し、助かろうとしている。覚悟を、しきれないでいる。
 だが、干川は違った、彼の瞳は輝いていた。

「いいんじゃないかな、それでも」

「えっ」

「俺たちは、兵士じゃない。ヒーローでもない。迷いながら戦っても、いいんじゃないのか?」

「でも……。そんなんで勝てるのかな」

「勝つ。護りたいものが、あるだろ」

 干川の言葉で、ピギがゆっくりだが、うなずいた。
 でも、アニータは続けない。

 地球を守ったら、かっこいい。でも、次の星で生きていくのも、かっこいい。どちらも魅力的に思えてしまう自分にとって、絶対に地球じゃなくてはいけない理由が、見当たらない。

 自分が守りたいものは、なんなんだろう?
 アニータは干川とピギの目をまっすぐ見れなかった。

「百人も、本気で選ぼう」

 干川は言う。

「そうね。覚悟なんてできていなくたっていい。私たちは、護りたい。だから、百人を選ぶのも、地球を救うのも、どちらも、やればいい」

「そうだ」

「みんなは」

 アニータは、コバルトブルーの床を見つめたまま、議論を遮った。静寂が訪れる。アニータが次の言葉を紡げない分、静かな時が。

「みんなは……怖くないの? 死ぬの。死んだらどうなるか、私たち、分からないんだよ?」

 ピギはキリスト教信者だ。死んだら天国に行くと思っているかもしれない。でも、干川だけはきっと違うだろう。日本人は無神論者だと聞いたことがある。何が来るか分からない死後を恐れる気持ちは、きっとアニータと同じはずだ。干川だけを、アニータは見た。

 干川は、まっすぐ、アニータを見返して、静かに呟いた。

「怖いよ」

 認知できない、怪物。その怪物が自分をどうやって殺すのか、想像もつかない。対策も取れない。ナヒレしか、頼れない。それが一秒でも間に合わなければ、死は訪れる。

「すごく、怖い」

「なら、どうして。責任もってみんなを救うなんて、言えるの」

「責任は取れない」

「は?」

「そうですね。我々に責任を取る方法はありません。人類が滅亡してしまえばその責任の取りようがないですから」

「そう。だから、責任なんて考えなくていいんだ。生きたい、護りたい。それだけじゃだめなのかなって」

「生き、たい……」

「そう。俺たちは、生きたい。死にたくない。俺たちだけが生きてもダメだろ。アニータだって、今の生活が好きだって言ってた。なら、その生活を作ってくれてたのは、地球にいるみんななんだ。だから、自分の好きな生き方を守るために、みんなを守る。それで、いいんじゃないかな」

 干川の理論は、頼りない。不完全だ。そう、ブリジットは言った。

 確かにそうだ。なんて独りよがりで、勝てる確信のない理論だろう。でも、それでも、アニータの胸は、いつの間にか軽くなっていた。

 ママの、温かい腕に抱かれるのが好きだ。ママの料理が好きだ。ママの暮らす家にたまに帰って、だらけて手伝いなさいと怒られるのが嫌いじゃなかった。それもすべて、あの家が、あの家がある場所が、自分が育ったあの場所と、人とが、あったからだ。
 アニータは、愛していた。ママと、それに付随するすべてを、愛していた。

「取られたくない……」

「……」

「誰かも分かんないようなのに、壊されたら、たまったもんじゃないよ…… 」

「ああ。だから、戦おう」

 干川はアニータをまっすぐ見つめた。今度は、アニータも目をそらさなかった。

 そして、思いついた。これまで見てきた映画を。これまで見てきたコミックを。今自分の目の前にいるのは、あの時、人類が希望を託したヒーローそのものだ。

「……私、作品描いてる途中だった。干川も、元気になったんなら、私が描き終わった後で会議、するんだからね」

 アニータは部屋を飛び出した。
 取り残された者は少し呆然として、笑った。ブリジット以外は。

「話の途中で抜け出してしまうなんて、どうしたんでしょう、彼女は」

「すぐにわかるわ、きっと」

 ピギはそう言って、干川の拘束具を外した。ブリジットはグリーンの同意がないのにそんなことをしてはいけないと注意をしたが、ピギは、確信を込めて反論した。

「私たちは家族よ。家族に、こんなもの必要ない」

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