幸福追求権が幸福を遠ざけている皮肉
「幸福追求権」を紐解くと、「個人が人間としての幸福を追求する権利。憲法は公共の福祉に反しない限り、最大に尊重されるべき権利とする」とあります。
これを読んで、たいへんけっこうなことじゃないかと思いませんか?
実は私自身は人生の大半でそう考えてきました。小学生の時に社会科で基本的人権を学んでかれこれ40年以上でしょうか。
ところが、この3年ですっかりひっくり返りました。これは人間の精神を荒廃させる毒だと感じています。
幸福追求権が幸福を遠ざける仕組み
幸福追求権は、個人が好きに自分の欲求を満たすことを奨励するものです。
夢の実現とかも割とそういう文脈ですね。夢を叶えるのは無条件にいいことのような扱いです。
ところが、数学者の岡潔は言っています。
ここでいう個人的な幸福とは、要するに動物レベルの幸福だと。
具体的には、お金、美食、容姿など欲しいものを手に入れる、好きな人と一緒に、嫌いな人からは離れる、人から大切にされる、認められるなど。
すべてが、「不快を避けて、快を求める」ことで括れます。
動物としての生存戦略的に、快適な環境の方が生存の確率が上がるからなんですが、昔理科で単細胞生物のゾウリムシでさえこの原則で行動すると習いました。
そして、個人的幸福を求めるのは、「我」(エゴ、仏教なら小我)です。我と我、エゴとエゴがぶつかれば争いになり、強者と弱者が生まれます。
最終的に勝つのは一人ですし、日本人の場合、そもそも争い自体を苦痛に感じるので、ほとんどの人が幸福から遠ざかるというわけです。
日本人が大切にした幸福
これに対し、かつて日本人が大切にした幸福は、クニを守り、発展させることでした。
クニとは、日本国家という後世人が作った観念的なものではなく、命を育む共同体のことで、みんなにとっての家族、お母さんのような血の通った存在です。
故郷のことを、クニと言ったりしますね。
日本には老舗企業が世界一多いですし、代々土地を守ったり、家を守ったり、継続することを重要視してきました。
それは種の存続、生命のつながりを守るという、命の最も本質に忠実ということです。
だからこそ、我を抑え、世のため人のために尽くすことを子供の頃から教育で教えてきたのです。
物心ついて我が肥大化した後では手遅れなので、幼い時期から。
大東亜戦争にかけて台頭した国家主義、全体主義は、健全な愛国心につけ込んで悪用したものです。
真の幸福を取り戻すには
個人的幸福をいくら追求してもキリがなく、他人と比較しては、もっともっとと求め続けることになります。
自分が本当に求めているものではないからです。
「起きて半畳寝て一畳、天下取っても二合半」という言葉のとおり、そもそも個人的幸福など、我が小さければあっけなく簡単に満たせるものです。
そうやって自分を満たした上で、人に喜んでもらい、社会に貢献することほど心が豊かになることはありません。
その過程で人間関係など大変なこともあるでしょう。
しかし、それさえ自分を磨く機会と捉え、喜んで苦労する真の人間が私たち日本人の祖先だったのです。
まずは個人的幸福の追求など断じて人生の目的ではない、人間はそんな卑小なものではないと知ること。
知ることから変化が始まります。
私はこれから日本人がそんな自分達の真の姿を思い出していく時代だと思っています。