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056 Main: NiceとKindはどうちがう?
第56回の収録は、亡母が暮らした団地で、まぁちゃんと対面で行いました。この収録の1か月後には、キレイさっぱりすべてものを処分して、カラッポの状態にして退去したので、この回を聞き返すと家のなかが思い起こされて、感慨深いものがあります。
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この回のメインテーマは「NiceとKind」。感じのよい人のことを「Nice」と表現することがありますが、NiceでありKindの人もいれば、NiceだけれどKindとは言いがたい人もいる、逆にNiceではないけれどKindな人も。
そしてもっと突っ込むなら、Kindという傘の下にも、利他的と利己的の両方があるように思います。このふたつは、なかなかどうして、明確な境界線もないのかもしれません。
今日たまたま聞いていたポッドキャストで、江戸落語の人情話「文七元結」の長兵衛さんは、実は利他ではなく、利己から50両を文七に渡したのではないか、という話がありました(「文七元結」のあらすじはこちらから)。
というのも、「金がないから死ぬ」という文七に、「お前に死なれちゃ寝覚めがわりぃや」という内容のセリフがあるんですね。要は自分の寝覚めのために、金を渡しただけなんじゃないか、と。立川談志もそういうふうに解釈していたようです。
まぁ、寝覚めもへったくれも、自分の娘を形にして借金を返すために手に入れた50両を、知らん若者にあげてしまったわけですから、そりゃあ、娘としてはたまったもんじゃないですよね。
Niceはともかく、Kindのほうは立ち位置によっても見え方が違う、なかなか奥深いテーマだと思います。
(か)
↓アフタートーク版もあわせてどうぞ。