眠海録
海に眠る都市がある。
黎昊を掃く㐬彁を拾い集め、生命とあわせて神をつくる者たちがいる。象嵌師の彔璻は汐睡の都の工房で鈍く煌めく破片を覗く。流麗に掘り抜かれた原型へ㐬彁を嵌め込み表皮を均す。滑らかに艶やかに言祝ぐように、薄膜を塗り幾度も磨けば、やがて淡い魂の灯が器に宿る。潮汐を嗅ぎ、薄弱ながらも温かな光の粒に、彔璻はそっと真名を囁く。「我が子、我が子、眠れる海の愛しき塵よ──」
海中に咲く波碧標花の剥片が泡沫に揺蕩い光を散らす。彔璻は弟子の枼肄に新たな神の世話を任せる。都に在る神のほとんどは、自らを生んだ者を知らない。代わりの手により育てられ、臓腑が固まる頃になると工房を離れて都市を漂う。例外は枼肄のように象嵌師に師事する神たちで、今や象嵌師として最高位にある彔璻も、かつてはその同類だった。
「お師さま、お師さま、私もいつかは象嵌師になれるでしょうか」
弟子となって間もなく、枼肄は度々そのようなことを無邪気に訊ねた。しかし彔璻は一抹の反応も見せずに黙々と㐬彁と向き合うばかりで、枼肄は次第に口数を減らしていった。ふたりの間には水底の沈黙が降り積んでいる。嘯士の眠守歌にも安らぎが灯ることはない。
汐睡の都は堆積した㐬彁の彫刻である。象嵌師に拾われることのなかった残骸や生の合間に毀れたものが悠久の時に結晶となり、それを削り出して都市は生まれた。渦巻く塔の群れは潮汐の恵みに生かされており、複雑に交錯する街路には艶めく白磁の髪が揺れる。彔璻は持てる時間のほとんどを㐬彁に触れて過ごしたが、休息の折には工房の窓辺から神の営みを眺めていた。波碧標花の花弁を封じた涼やかな音の昊晶球を弄び、虚ろな心を解くように、微かな笑みを浮かべながら。
「彔璻を生んだ象嵌師は、たいそう美しい神だったとか」旧友の賁韶が戯れに言う。「彼女はどこへ?」問うと噂好きの嘯士は首を振って「知らないよ。その辺にいないなら、底の方にでも消えたんじゃない?」曖昧な言葉で枼肄を困惑させた。
彔璻は自身について語ることなく、故に彼女が眼差す先に何があるのか、枼肄は知らない。汐睡の都には微睡みにも似た永遠がある。枼肄は無言のままに背中を見つめ、うつらうつらと時の水脈を漕ぎ続けている。
工房へと続く回廊を歩く時、外にせり出した露台から神の葬送を見ることがある。随行の嘯士が清廉な調べを奏でて歌い、眠る骸は廻流を緩やかに辿っていく。神はその死に際して、身体を構成する一切が㐬彁に変ずるという。流動性を失い硬直し、最後には水底の虚へと送り出される。落ちる。落ちる。果てなき闇に呑まれて消える。彔璻もいつしか㐬彁になる。不意の想像に枼肄は身を震わせる。象嵌の筋をそっとなぞり、甘い疼きを押し込める。
繋がりは儚く、思いは歪な澱のようだ。象嵌師への敬意は彔璻への憧憬と重なっており、枼肄は底なしの瞳と嫋やかな指の蠢きに魅入られていた。「お師さま、お師さま。どうして神をつくるのですか」生まれたばかりの神を受け取り枼肄は言う。抱えた身体の真白い髪が肩を流れ、閉じた目蓋は永遠の眠りを思わせている。「母になるためだ」彔璻は背を向けたまま、たったひとこと声を返した。
㐬彁の降る日には誰もが遠い黎昊を見上げている。都市の道々に姿を見せた神たちは、昊晶球と見紛う鮮烈な光の軌跡に歓声を上げ、枼肄はそれを見る度に、同胞の誕生を言祝ぐようだと思う。賁韶も彼らの中にいるだろう。漂う噂に耳を傾け、真実の眼を隠している。彔璻が席を立つ。㐬彁を拾い、神を象る。
他の象嵌師につく弟子たちが次々独立していく中で、枼肄だけがいつまでも残されている。愚かな疑念が象嵌の痕を伝い落ちる。何もかも彔璻の夢なのではないか? 終わることなく尽きることなく、あの繊細で美しい指先が魂の形を彫る限り続く夢。彼女の内にこそ己は在って、生まれることもできずに踠いているだけではないか? 口腔を満たす水は彔璻の味そのものであり、遠く波打つ嘯士の声は、自身に向かうものではなかったか。
眠守歌が都市を彷徨うのは、あるべきところに届くためだと賁韶は言った。「最後には廻流に乗って果てへと向かう」そこから先を知るものはなく、だから汐睡の都に神が絶えることはない。すべての痛みは遠ざけられる。あらゆる営為は目覚める前の幻であり、嘯士の歌は滅びぬ神への慰めである。
眠りに秘された真実のため、真名を偽り彔璻を都市の淵へと招き寄せる。白磁の髪が優美に解け、惑う背中に呼びかける。「彔璻」
「母さま──」振り返る。視線が交わり、見開かれた双眸が憂いを灯す。「……ああ──」
瞳に映る真実を見る。
自身を録した鑽を突き出す。
抱擁の中に虚ろな吐息が零れ落ちる。落涙は海に蕩け、目覚め前の譫言だけが泡沫となって震えている。
「母さま、母さま。私は貴女になりたかった」
どちらの声ともわからないまま、頽れる彔璻は全身を㐬彁に変え、さかしまに水底の虚へと沈んでいく。毀れた破片が宙を舞い、波碧標花の花弁に混じって微かな煌めきを都市に散らした。
やがて黎昊を㐬彁が掃き、象嵌師の枼肄は汐睡の都の工房で鈍く煌めく破片を覗く。「我が子、我が子、眠れる海の愛しき塵よ──」囁く言葉は凍てつく波に攫われ消える。眠守歌が廻流を辿る。あまねく神は永遠の眠りに沈みゆく。そして再び㐬彁となり、魂の象嵌は果てなき海の目覚めを誘う。
神の眠る都市がある。
汐睡の都の工房に歌が漂う。見上げた黎昊の遠い果てには、眩い神の光跡が刻まれている。象嵌師が㐬彁に触れる。海はそこで眠っている。