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【創作奇譚】鏡の国のアリス症候群
(症例:埼玉県加須市在住 30代男性)
※彼の日記より罹患による心理経過を観察する。
7月30日(火)
最近、顎髭を伸ばそうと決めた。
理由は明白。キャラ付けのためだ。
来月にネットコミュニティのオフ会がある。そこで私を認識してもらおうと思っての事だった。
ネットコミュニティで使用している私のアイコンは、顎髭を生やした丸メガネの男性の顔である。
これは、アイコンジェネレータで適当に出力したものを使用しているに過ぎないのだが、熱心にコミュニティに参加するうち、私は「ヒゲの人」として周囲から認知されるようになった。
実際の私は童顔であり、髭など生えていない。
生やしたところで似合わないと思って剃ってきた。
しかしオフ会をやるに辺り、無相応でも髭があった方がキャラを崩さなくて良い。
それで、生やすことにした。
8月12日(月)
ここのところ毎日、鏡で自分の顔を見ている。
顎髭は順調に生えているようだ。
ただ、伸ばしっぱなしというのはズボラのやること。自らの意思で伸ばしていることを周囲にアピール出来なければ、まず社会人としてやっては行けない。
口髭や、耳周りなどは手入れをしなければ、ただの無精髭となってしまう。
それで鏡を見ては髭の伸び具合を確認するが日課となった。
ふむ、顎髭面も案外悪くないじゃないか。
なぁんて。
顎に手をやった時に違和感を感じた。
鏡の自分にはややたっぷりとした髭があるのに、触ってみるとジョリジョリとした感覚。
手元の触感と鏡の自分が合っていない。
はて。なんだろう、これは。
8月19日(月)
同僚から無精髭が汚いから剃れと言われる。
確かに似合ってはいないのかも。
しかしなんだってそんな言い方はないだろう。
鏡で毎日確認しているのだ。無精髭だというほどに汚いようにはしていないはずなんだが。
まぁ、今週末はオフ会だ。
それでヒゲの人と認知されればまぁ目的は果たせるだろう。
しかし、鏡の自分と手元の感覚が相変わらず合わない。
本当に自分の姿が写っているのだろうか。
8月24日(土)
今日はオフ会の日だった。
ひろぽん氏もタカタク氏も、コミュニティて会ったことある人との交流はやっぱり良い。
しかし、数人から「思ってたより髭面ではないんですね」と言われた。
飲み屋のトイレで自分の顔を見たが、かなり髭は伸びている筈だ。
しかし、顎を触ってみれば確かに相変わらずジョリジョリとしている。
手元の感覚通りなら、そんなに髭は生えていない。
やはり変だ。認識と感覚が違う。
なんだろう、仕事のストレスで私がおかしくなったのか。
病院で診てもらった方が良いのかも知れない。
でも、これは何科に行くべきなんだろうか。
医者に診てもらうまで髭はこのままにしておこう。
8月26日(月)
仕事は午後休みをもらって病院へ行った。
悩んだ末、ストレスかも知れないという思いから精神科の受診を決めた。
医師は症状を聞くなり、鏡の国のアリス症候群ですね、と言う。
最近多いんだそうだ。
知らない病名だが、どうやら鏡に映る自分の認識と現実が食い違ってしまう症状らしい。
「まぁ、はしかみたいなもんですよ」
と、医者は言っていたが本当だろうか。結構な事だと思うが。
実際、結構な事らしく、診断書が書かれしばらく安静にするようにと言われる。
職場にも相談したら、幸いに2週間の休みとなった。理解のある上司で助かる。
薬が2種類、計5錠が処方された。
医者曰く、鏡を真実と思わないように。との事だった。
思ったらなんなんだと聞いたら、「入れ替わります」とだけ言われた。
8月30日(金)
休職はしたものの、体のどこが悪いという訳でもないのでまぁ暇だ。
1日がこんなにも長いものかと思う。
日がなゲームをするか、ネットコミュニティに入り浸るかしかしていない。
顎髭は鏡との認識の違いを確認するのにちょうど良いので、そのままにしておく。
どうせ誰に会うわけでもないのだし。
相変わらずジョリジョリした感覚だ。元々が童顔だし、髭が伸びないタチなのかも知れない。
鏡の自分はイチローのようなしっかりとした髭があるというのに。
正直、鏡の自分が羨ましい。
9月10日(火)
今日から職場復帰。
とはいえ、まだ薬は飲み続けている。
結局、休職期間で治ることはなく、生活に支障があるわけではないという理由から職場の方から復帰を命じられた。実際、その通りだ。
休みが貰えただけ、上司の理解が良かっただけだ。
しかし、すごい仕事の量が溜まってしまった。これは大丈夫だろうか。
10月12日(土)
今日も出勤した。ここのところ休んでいない。
終電帰宅か、徹夜の日々だ。
2週間という休職期間はそのまま仕事が手付かずだったらしく、巻き返しのための仕事がとんでもないことになっている。
零細企業に勤めるとこうなるのか。
職場の人間関係は悪くないが、仕事量は地獄でしかない。
ずいぶん痩せた気がする。目のクマも酷い筈だ。
だのに、鏡の自分は余裕のある顔をしている。血色もいい。コイツと変わってくれないかな。
10月21日(月)
月曜日という日がこんなにも憂鬱なんて。
仕事のことを思うと辛い。
私はやつれているはずなんだ。それなのに。
ふと日記を見返して、医者の言葉を思い出した。
鏡と入れ替わるとか何とか。
もしかして、入れ替われるのか?
鏡の自分が本当の自分と思ったら?
そんなの簡単じゃないか。
血色も良く、顔立ちも良く、顎髭だって立派に生えている。あれが俺に違いない。
あれが俺なら仕事だって立派に出来るだろう。
あれが俺だ。鏡の俺が俺なんだ。
11月5日(月)
清々しい朝と共に、今日も1日を迎えることができた。
仕事も人間関係も文句ない。こんなに生きがいに溢れているのは初めてだ。
上司も見違えるほど立派になったと仰ってくれた。つくづく理解のある上司だ。
顎髭はダサいから剃ってやった。
薬ももう必要ない。
だって、俺は俺だから。
鏡の国のアリス症候群とは、鏡に映る虚像と実存する人間の人格が入れ替わる精神疾患です。
1975年、米オクスフォード大学医学部のレイヤード・ダイモン氏によって発見されました。
レイヤード氏は、鏡に映る虚像の人格を「アリス」と呼称したことで、この病名は鏡の国のアリス症候群と名付けられ一般に流布しました。
初期症状として、鏡の自分と実際の自分に差異を感じる、鏡の自分がこちらを見ているような感覚に陥るなどがあります。
発症のトリガーは不明ですが、いずれも鏡を注視するようになったタイミングで起きることから、鏡と何らかの関係があることがわかっています。
症状が進行すると、鏡の虚像(アリス)は罹患者の望む姿を反映した形で映るようになり、罹患者は鏡の虚像に対して羨望を抱くようになります。
さらに症状が進行すると、鏡の虚像(アリス)は罹患者を乗っ取り、自らが現実世界の実像として振る舞います。
鏡の虚像(アリス)が乗っ取りを行うための手段は依然として不明です。
対応手段として、罹患者は無自覚のストレス化にあることが示唆される事から、ボルチオキセチンなどの抗うつ薬により症状の緩和が見込めます。
2024年現在、アリス化した罹患者は推定で約2万人に達すると言われ、早急な対応が望まれます。
米澤大学医学部精神科医の青国茂教授によると「自分が自分であると自覚できる環境が大事である」とし、高ストレス社会の弊害として警鐘を鳴らしています。