あの日、壁と見た立虫神社の話
※この記事は「ゆる民俗学・音楽学ラジオ非公式Advent Calendar2024」の6日目の記事です。
※前の記事はぐぐさんの「壁になる前後の思い出について」でした。次の記事はよみみさんの「バ執に住み着いてる早起き妖怪」です。
はじまり
「お邪魔しようかな……」
全ての始まりはこの一言からだった。
あなたが仮にヲタクだとして、推している人(例えば芸能人とかアイドルとか)からこんな連絡を受けたら、喜ばずにいられるだろうか。
嬉しくて、どうにかなっちゃうんじゃないだろうか。
溢れたヨダレが止まらないのかも知れないし、嬉しくて夜も寝れない日が続くのかも知れない。犬だったら嬉ションしてるだろう。
そんな、どうにかなっちゃったのが、そう、私です。
申し遅れました。ゆる民俗学&音楽学ラジオのサポーターをしております、しうと申します。
YouTube・ポッドキャストで配信されている「ゆる民俗学ラジオ」を見たのをきっかけに、サポーターとなったのが1年半前。
それ以降、当ラジオのメインパーソナリティの黒川晝車(くろかわひるま)氏を憧憬しつつ応援していたのだが、所詮、画面の向こうの人。
東京に行けば会えるのかも知れないけれど、島根県に住む私にとっては文字通りに遠い存在。私なんて烏合の衆にすぎない。まして個人を認知される機会なんてないだろうと思っていた。
それがまぁ色々あって、黒川氏その人直々に上記の連絡を貰うに至ったのである。よもやよもや、だ。
一応補足しておくと、私個人に会いに来るとか、そういう蜜月な関係ではなくて、私どもが運営している神楽を見るために島根へお邪魔しようかな……という文脈だ。変な勘違いをしないように。
さて、そういう訳で、推しているラジオパーソナリティが故郷に来たぞ!会える距離でフラフラ観光してるぞ!という千載一遇のチャンス。
これはもう会うっきゃない!と喜び勇んで、仕事も何もかんもほっぽり出し、黒川氏一行の旅団と合流したのが11月4日の出来事。
(※11月3日に取材があったけど、本記事には関係ないので割愛する)
「地元民なんで観光案内は任せてください!」
と、それはもう鼻高々にしゃしゃり出た。
そして、島根県出雲市日御碕から私のガイドツアーは始まったわけなのだった。
立虫神社との邂逅
「灯台には未練はないけど、岬を見たいんですよ」
どこを観光したいですか?という私の質問の返答は、たしかこんな感じだった。
普通、日御碕に来た観光客は白璧に輝く灯台を見たいというのだが、なるほど、只者ではない人間は只事ではないことを言う。
相手は民俗学を修めている御仁だし、まぁそれなら日御碕神社と周辺の景観を見てもらえばよかろう、とそれを提案し、集合場所から歩いて神社へ向かうことになった。
……なったのだが。
「え、何あれ!?すごい形の岩だ!」
「(海の向こうの島を指差して)うわ、あんなところに鳥居がある!」
「ねぇ!カマキリいたんだけど!」
小学生か!とツッコミたくなるようなはしゃぎっぷりの旅団一行は、500mの道にも30分は要する足並みで、なかなか目的地に辿り着かない。
「ここ、道がある。登っていかない?」
焦れる私をよそ目に、黒川氏は道端の笹林を前にはたと止まった。
え、こんなとこに道なんてあったかな?と、黒川氏の指差す方を見やれば、かろうじて道に見えなくもない、山の斜面がある。
「この先って何があるんですか?」
無邪気に聞かれるも、そもそもそんなところに道があったことすら私は知らない。
いやあ、分からんですね、と答えると、ならばと言わんばかりに旅団はズンズンと山に分け入って行く。
完全に後を追う形で私も山に入ってみる。
すると、20m程度登った先、急に視界が開けて、一棟の祠が姿を現した。
「何なんですかね? これ」
分からない。
祠に近づいて社名板を見てみる。
「末社 立虫神社」とある。
「たちむし? たてむし? なんと読むんだろう」
ワカラナイ。
「御祭神、少童命とありますね。なんて読むんですかね」
ワカラナイ。
「祠の前にある石は何だろう? 建物の基礎かな」
ワカラナイ。
「末社ってことは本殿がどこかにありますね。どこだろう」
ワカラナイ。
私は、ガイドを始めて一時間弱にして「ワカラナイ」と鳴く霊長類と化してしまった。
なんとも不甲斐ないことである。
その後の案内は順調に進んだものの、同行の最中ずっとこの謎の祠のことが気になっていた。
ーーなんとか挽回したい。
憧れる人物から認知されるなら、ワカラナイと鳴く霊長類ではなく「こいつ、出来るな…!」と少しでもいいから思って欲しい。
人は時に悔しさをバネに成長するんだ!
野心というべきか、下心というべきか。
そういう煩悩に塗れつつ、私はあの日の雪辱を果たすべく、この謎の祠「末社 立虫神社」について調べることを決意したのであった。
本題:末社 立虫神社について調べてみた!
さて、前置きが長くなってしまった。
つまり、この記事の本題は「この祠って何だろう?」という疑問について調べてみたものである。
サポーター諸氏については、「男5匹、出雲を往く@202411」の外伝と思っていただれば幸いだ。
さぁ、あの時の謎を解き明かそうではないか!
……。
なぁんて、意気込んでみたものの何から調べたらよいのだろう?
さっぱり分からないので、まずは情報を整理してみよう。
当社が位置するのは、島根県出雲市(旧大社町)日御碕。ウミネコの繁殖地として知られる経島(ふみしま)を眺望できる丘の中腹に建っている。
社名板には「末社 立虫神社 御祭神 少童命」とあることから、恐らくどこかの本社に列すると思われる。
Google MAPで確認してみると、周辺の神社において最大の社は、日御碕神社。
次いで、熊野神社。そのすぐ近くに立虫神社(宇龍)とある。
これを見て真っ先に思い浮かぶのは、「立虫神社(宇龍)」が本社なのではないかということ。
実際、黒川氏旅団とも現地ではそういった推測をしてした。
とても無関係には思えないので、先ずここへ行ってみる価値はありそうだ。
立虫神社(宇龍)との関わりについて
……という訳で、行ってみた。
なんというか……
思ってたんと違う。
雨避けの掘立て小屋に覆われているため、幾分か規模は大きいように感じられるが、それでも小さく、とても末社を擁するほどのものには見えない。
近くに由緒書きでもあれば、と辺りを散策してみるも何もなし。
眼下に見渡す宇龍港ののどかな景色と、神社に差す木漏れ日があるのみだ。
うーん……まいったな……。
思えば、本宮と末社が同名になること自体に違和感があった。
普通、本宮と末社は異なる社名を持つ。同名であるケースもないことはないのだろうが、稀だと思う。
同じ社名を冠して、仮に同じ神を祀っているとしたら、それは末社ではなくて分社と呼ぶべきだろう。
というか、規模感からして「立虫神社(宇龍)」が「末社 立虫神社」の分社だったりしないだろうか。
これは完全に推測なのだが、「末社 立虫神社」が元々あり、これが祀る「少童命」なる神の御神徳を奉って「立虫神社(宇龍)」を独立創建したんじゃないか、とも思える。
そう思って、「少童命」をGoogleで検索してみる。
地方神の類だったら検索しても出てこないだろうな……と期待せずに入力してみると、「少童」と打った時点で予測変換に「少童命」が出てくるではないか。
え、もしかして有名な神様だったりするの?
びっくりして検索ボタンを押してみれば、検索トップはWikipedia。
「ワタツミ」とヒットした。ヘェ〜〜〜。
よくよく調べてみると、「少童命(わたつみのみこと)」は『日本書紀』でのワタツミの表記らしい。
「少童此云和多都美(日本書紀 一書第七)」とあるんだそうだ。
ワタツミといえば、海の神であることは周知であろう。
ここ日御碕宇龍地区は漁師町であり、宇龍港に代表される漁業の盛んな地区だ。
この地区に住む海の男たちが、自らの航海安全と豊漁を願ってワタツミを信仰するのは何ら不自然なことではない。
現状どちらの社も創建年が分からないので、説を立証する手立てはないが「末社 立虫神社」が何かの末社であるには違いなく、末社から分派して「立虫神社(宇龍)」が創建されたと推測するのはストーリーとして理解しやすい。
一旦はこの推測をもって「立虫神社(宇龍)は無縁ではないけれど、本社ではない(なさそう?)」と結論しておきたい。
日御碕神社との関わりについて
すると、調査は振り出しに戻るわけだ。
次に本社の候補として有力なのはやはり、直近にあって最も規模の大きい神社、「日御碕神社」だ。
こちらは先ほどの立虫神社(宇龍)と違って、国の重要文化財にも指定される古廟である。
由緒書きもあれば、創建年だってはっきりしている。
資料の数だってそれなりにあるだろう。
社殿年表とか、学術記録とかみっかれば儲けもんだな、と思いつつ、向かったのは出雲市立中央図書館。
閉架資料含めて、日御碕神社の概観が分かる資料を一切調べてみようと思った次第である。
さっそく、司書さんを捕まえて資料捜索の相談にかかる。
すいませーん!日御碕神社について分かる資料一切みたいんですけどー!
すると、どうだ。
司書さんの顔がどんどん曇っていくではないか!
え、なんで……?
詳しく聞いてみると、日御碕神社について体系的に纏められた資料は図書館の蔵書にないらしい。
しかし、「日御碕神社の大まかな歴史や記録が載る資料としてはこんなものがありました」と出して頂いたのが、『大社町史』である。
なるほど。郷土史か。
確かにこれなら日御碕神社に限らず、地域の事細かな史料が概観できる。
さすが司書さん!プロの着眼だ。
丁寧にお礼を述べ、さっそく借りてみた。
とりあえず、日御碕神社について詳しく記してありそうな章を目次から引いてみる。
なるほど、日御碕神社の説明は「第三章 宗教 第五編 文化編」にあるのだな。よしよし。
さっそく引いてみると……、
ある。あった。ありました。
あるやないけ!
キチンと社殿の写影まで掲載されているため、同定も可能だ。
間違いなく、調べている「末社 立虫神社」に相違ない。
これがあったのは、日御碕神社 境外末社の紹介ページ。なるほど、境外社なのね。
何となくキレイに管理されている跡があったので、誰が手入れしているんだろう?と不思議に思っていたのだ。日御碕神社の宮司が境外社として祀っているなら、キレイに管理されているのも納得だ。
「立虫社」に続く紹介文は以下のようにある。
残念ながら、立虫社に関する文章はこの一文しかない。とはいえ、ここから読み取れないものがないでもない。
明治7年(1874年)に宗像神社に合祀されてから明治12年(1879年)に復旧とは、わずか5年の間だ。
何かあったのかなと、とりあえずインターネットで検索してみる。
すると、Wikipedia「明治12年-できごと」にこんなものが載っていた。
『6月4日-東京招神社が靖国神社と改称され、別格官幣社となる』
そういえば、明治初頭といえば近代社格制度が整備され、社名や御祭神が網羅的かつ体系的に整えられた時代だった。
今は廃止された制度ながら、我々が見ている神社は概ねこの制度の影響を受けている。
この日御碕神社も例外でなく、元は『延喜式』において「御崎社」、『出雲国風土記』においては『美佐伎社』とされていたが、社格制度を機に「日御碕神社」と改称されて今に伝わっている。
とかく日御碕神社は、出雲大社で有名な大社町にあるが故にかつては出雲大社の末社として扱われてきた背景がある。巨大な権威からの脱却・独立という悲願に向けて苦心した末、室町末期になってようやく大社からの独立を果たした神社だ。
それでも出雲大社とは因縁があっただろうし、いつまた取り込まれるか分からないほど巨大な権威には違いない。
そこへ来ての近代社格制度だったろうから、まさに社運をかけて自社の権威付けに奔走したんじゃないだろうか。
これは勝手な妄想に過ぎないけれど、明治初頭に立て続いた立虫神社の合祀・復旧の背景には、ただの建て替えとは意味の異なる苦心の跡が見てるような気がするのである。
まぁともかくも、あの日「なんだこれは!?」と黒川旅団をざわつかせた祠の正体は、日御碕神社 境外末社 立虫社だったことが分かったのである。
取り残された謎
残る疑問は、「祠の前にある石は何なのか?」ということ。
十中八九、建物の基礎だとは思うのだが、それはそれで元あった建物がどんなものか気にはなる。
ヒントになりそうなのはGoogleマップのクチコミに残された、こんなコメント。
このコメントは2年前だが、更に遡る5年前の写真投稿にはすでに苔むした基礎(?)が写っている。
コメント自体の信憑性が怪しいものの、5年以上前には拝殿があったのかも知れない。
ただし、結論から言って、この石の正体やもとの姿を収めた写真や記事はついぞ見つけることが出来なかった。
一応、『大社の史話』なる地方刊行誌やら、日御碕神社工事記録を一通り見たものの、それらしい記録はない。
社殿絵巻にかつての姿が収められてないかな、と図録を探して見たりもした。
しかし幾ら探せども、立虫神社のかつての姿が分かる資料は見つからなかった。
もう少し本気を出して、地方新聞紙を明治時代から遡ってみれば何やら見つかるかも知れないとも思うが、それを許すだけの時間と気力は流石に無い。
まぁ、神社の素性が分かったことで調査は一旦お終いにしよう。
まとめ:調べてみて分かったこと
ここで改めて、「末社 立虫神社」について分かったことをまとめる。
本殿:日御碕神社
境外末社:立虫神社
御祭神:少童命(わたつみのみこと)
創建年:1879年(明治12年)※社殿建替年は不明。
なお、「立虫」の読みについてだが、おそらく「たちむし」だろう。
というのも、やや場所は離れるが出雲市斐川町に「立虫神社(たちむしじんじゃ)」という同名の神社が存在するからだ。
今回調べていた神社とは直接関係なさそうだったので詳細は割愛するが、神等去出祭で有名な万九千神社の境内社である。
「立虫」の名前は案外古く、出雲風土記には既に「立虫社」として記載がある。
先達の研究によって、出雲風土記内の「立虫社」は斐川町にある「立虫神社」のことだろうとされているので、日御碕神社の末社とは由緒が異なる。
実際、風土記を見てみると「美佐伎社(日御碕神社)」は、杵築社(出雲大社)の近くに名前が記載されるのに対し、「立虫社」はほぼ末尾に記載されていた。
つまり、風土記編纂の時代には大社系列とは(物理的・由緒的に)距離のある社だったのだろう。
まぁとはいえ、珍しい名前だなとは思う訳で、慣習的に斐川町の社名を「たちむし」と読むなら、日御碕神社の末社も「たちむし」と読むのだろうと、そういう推測な訳である。
以上が、この「末社 立虫神社」について調べてみて分かったことだ。
取ってつけた結句:島物語り歌謡
さぁて。
これ系の記事は、最後になんかいい事やそれっぽい事を言って締めるのが鉄板だ。
なんだが、なんとも良い辞句が浮かばない。
なんとかここから民俗学的なエッセンスに結びつけつつ、締めれないだろうか。
何か……ちょうど良い小ネタはないかな。
そこでまったく話は逸れるのだが、今回、日御碕に関する土地の歴史や風習についても調べていたところ、かつて日御碕で歌われていた『島物語り歌謡』という歌に行き合った。
これは何かと言うと、江戸後期から昭和初頭あたりまで日御碕近傍の船郎によって歌われていたらしい、名所案内に節をつけた歌謡である。
無学の船郎の口碑によって伝承されていた作者不明の歌であり、残念ながら今にはもう残っておらず、記録として文字に起こされたものしかない。よって、歌と言いつつ、抑揚や調子はもはや知る術はないものだ。
この歌謡は、国譲りの舞台で知られる稲佐の浜から日御碕に至るまでに船上から見える島々に伝わる謂れを説明している。
当時は今のような整備された道路はなく、日御碕に行くための主な交通手段は船であった。
しかし、当時から観光地として一定の客人がいた事がこの歌が語られていた事実から知ることができる。
非常に長い歌謡であるが、これがなんとも情景豊かであり船旅の旅情というものを感じる良い歌なのだ。
一部抜粋なのだが、ここに紹介してみる。
先の文章にも書いたのだが、今回調査していた立虫神社は、経島を眺望できる丘の中腹に位置している。
きっと長い歴史のなかで、かの神社はこの歌謡を聴いていたことだろう。
見晴らしの良い岬なのだ。
客人を乗せて船をゆっくり漕ぐ船郎の呑気な歌声は、丘の上まで届いていたはずだ。
少なくとも少童命(わだつみ)は聴いているだろう。
船郎が祀るのはきっと海神なのだろうから。
今はもう失われてしまった歌謡を偲びつつ、これで筆を置こうと思う。
こんな記事でも日御碕に興味を持った方がいれば、是非出雲に来て頂ければ幸いだ。
また、それぞれの場所で暮らす人々の生活の豊かさを教えてくれるのが民俗学の面白いところである。
民俗学の素養があれば、もっと旅情を感じることができるだろう。
そんな民俗学の面白さを垣間見せてくれる「ゆる民俗学ラジオ」には感謝しかないし、それをゆるっと柔らかく紹介してくれる黒川氏にはもっと感謝している。
加えて、遠路はるばる出雲まで来てくださった壁の皆さん、旅を見守って下さった壁の皆さんにも感謝!
なんだか最後上手くまとまらないんだけど、とにかくサポコミュに入って良かった!以上!
参考文献
大社町史編纂委員会編・著『大社町史 上巻』1995年、大社町
大社町史編纂委員会編・著『大社町史 下巻』1995年、大社町
谷川健一編『日本の神々7(山陰)』1985年、白水社
文化財建造物保存技術協会編『日御碕神社上の宮鳥居(西)保存修理工事報告書』2024年、日御碕神社※社園図引用
島根県教育会『島根県口碑伝説集』1927年
島根県立図書館所蔵『出雲風土記 光真本』1634年写本