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合う合わないは絶対にあって
ある原稿を読みながら、きょう初めて、叶うならその著者に「私論」を読んでもらいたいなぁと思った(思ってしまった)瞬間がありました。
曲がりなりにも本を何冊か出されている「プロ」の先生方は、それはもう当たり前のように一定の水準以上の文章力を備えているものです。そうでなければ、少なくとも一発屋で消えてしまう。
しかし、作家といっても個性はあります。抜群に文章が上手くて編集が意見を差し挟む余地などほとんどない人もいれば、初稿は驚くほどの粗書きでゲラ(校正刷り)の段階でたくさん赤字を入れて魔法のようにブラッシュアップする人、そして、特筆するほど文章が上手いわけではないけれど、とにかくストーリーが面白いのを買われている人。文章の上手さとストーリーの面白さは決してトレードオフの関係ではなくて、両者が高い次元で備わって初めてベストセラーになるわけですが、ただでさえ縮小する市場で、ホームランにならずともヒットをコンスタントに打てるのは貴重な才能といえます。
とりわけストーリーを買われているタイプの人のゲラでは、多少の粗さには目を瞑りつつ、自然、編集として意見を書き込むことも多くなります。もちろんリスペクトをもって、それは指示ではなく、あくまで畏れながらの提案に過ぎません。しかし、プロとはいえ好不調の波がある人間ですから、多かれ少なかれ文章のミスなどは有り得ます。ストーリー構成や伏線の張りかたが、そう毎度毎度、完璧であるわけもありません。過去にホームラン級のスマッシュヒットを打ったことのある人ほど、編集としてもその残像を透かして見ていますから、目の前のゲラに求める水準が高くなってしまいます。
そんなとき、10万字近く自分の意見をまとめた「私論」を読んでおいてもらえたら、もっと考えを共有できるのに……と思った(いや、思ってしまった)わけです。
しかし、小説というのは畢竟、答えのない自由なものです。かくあるべきという理想形など存在しえないし、もしあるとしたら、既に誰かが書いてマスターピースになっているはず。そのマスターピースひとつさえあれば、他の小説などいっさい不要となり、拡大再生産される意味もなくなってしまいます。
著者によって、文体によって合う合わないは絶対にあって、私ごときひとりの編集の肌に合わなくても、他の誰かには生き別れの兄弟みたいにぴったり合うかもしれません。
かように、自分の小説観を一連の文章にまとめるということは、複雑に入り組んだ思考を整理するのに便利である反面、小説とは「かくあるべき」と固定観念化させてしまうリスクを内包しています。その意味において、あの長文noteのなかに「絶対の正解」と呼べる項目はおそらく五指で数えるほどしか存在しないし、一瞬でもそれを共有したいと考えてしまったことは、しっかりと反省すべきだと感じています。
難しすぎやしませんか、小説。
悩まない日はありません。
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