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純文学とエンタメ
分けること自体に意味はないし、確たる答えの存在しない不毛な議論であることは重々承知のうえで、永遠の課題「純文学とエンタメの違い」について、あくまで私なりの解釈を書き留めておきたいと思う。
先日、興味深いツイートを拝見した。
むかし角田光代さんに「純文学とエンタメ系の小説と、どのように書き分けておられるんですか?」とお聞きした。「純文学は自分の側に寄せて描きたい世界を描くので絵画に近く、エンタメ系は誰が見ても同じ形に見えるものを作るので彫刻に近い」という意味のことをおっしゃっていてとても腑に落ちた。
— 仙田学 (@sendamanabu) January 26, 2021
私の解釈・感覚がまったく同じというわけではないが、なるほど、角田先生のおっしゃりたいことはたしかに私も納得できた。
「純文学は自分の側に寄せて描く」
「エンタメは誰が見ても同じ形に見えるものを作る」
という点についてはほぼ同意できる。
何度も書いてきたように、エンタメとは拡大再生産される金太郎飴のようなものだと私は思っている。ひとつの作品から受ける印象が、誰の目を通して見ても同じ(になるように極力努力する)もの。もっといえば、あるひとつの作品を別の作者の別の作品と比べてみてもなんらかの共通点を見出せるであろう、ある程度の作法や様式美、クリシェに則ったもの。
それはそうだ、大衆を楽しませるのが目的なのであれば、大衆が好み、大衆に親しまれやすい最大公約数的な物語の類型や傾向、読者にとっての快感のツボのようなポイントが存在するはずだ。そしてそれは、先達による長年の実験と研鑽のおかげで、ある程度は学ぶことができる。
大衆が楽しめるものを書くわけだから、まずは自分が読んで面白くなければエンタメではない。まずは自分が読みたいものを書く、その嗜好に作家性が生じてくるだろう。
エンタメ小説は喩えるならボクシングだ。「序」ではジャブ、ジャブ、ストレートで少しずつ盛り上がりを作っていき、「破」では「右フック・左ストレート」や「ストレート・左アッパー」などを織り交ぜて手数を増やしながら、変化をつける。そして「急」では息つく間もない怒濤のラッシュ。1ラウンド3分、12ラウンドなら12ラウンドが終わるまでにリング上で相手をノックアウトするのが目標となる。
一方、純文学が依拠するのは基本的に読者ではなく「著者自身」だと私は想像する。「自分の側に寄せて書く」わけだ。
書かれる文章がまったく読者のほうを向いていないとはいわないし、むしろ読者を積極的に巻き込むことで成立する文学的なアプローチもあって然るべきだろう。とはいえ、純文学が依拠するのは著者自身、他者のなかに在る自己、そして広く一般の「人間」や「言葉」そのものに対する飽くなき興味、探究心だ。必ずしも読者を楽しませることが第一義であるとは限らない。
だから純文学は拡大再生産されるべきものではないし、他の作品と似なくて当然だと思う。むしろ似てしまったら凡庸だ。大衆を喜ばせるエンタメのツボなどクソ喰らえ、既存の枠組みをぶっ壊して完全なるワンアンドオンリーを目指してやる、それが純文学を志す者のあるべき姿勢だと思っている。
だから文学は自由だ。経験則も王道も定石も存在しない。格闘技に喩えるなら異種格闘技戦、完全なるフリースタイルの殴り合いといったところだろうか。キックボクシングでもムエタイでもレスリングでも柔道でも、果ては武器を用いる剣道でも、とにかく勝つためなら流派は問わない。戦いの場は狭いリングに留まらず、場外乱闘は当たり前、実況席のパイプ椅子ぶん回しから触れると電流が迸る有刺鉄線まで、なんでもござれ。
いっそ作品を書いている自分自身が楽しめなくてもいい。書いていてひたすら辛いけれど書かずにはいられないから書く、衝動に突き動かされて気がついたら書いている、それも文学のひとつの形だろう。
「純文学は売れない」
といわれて久しいが、それはそうだ。そもそも「学」というくらいだから学究のためのものであり、読者を楽しませることを第一の目的としてはいないのだから。
もちろん知的刺激を受けるため、知的好奇心を満たすために純文学を読むのがなにより面白い、興奮する、という熱心な読者も皆無ではないだろう。「興味深い」という意味での「面白い」だ。
しかし、大衆に向けられたエンタメと比べると、どうしても需要は限定的になる。自己とは何者か、人間はどこから来てどこへ行くのか、言葉とはどのようなものか……など、著者と同じ疑問を切実に共有できている人でなければ、純文学の作品を十分に理解し、楽しむことはできないのだ。著者が読者に寄せるのではなく、読者が著者に寄る必要がある。純文学はその性質上、読者を選ぶ。選ばざるをえない。
出版は、相対的にパイの大きいエンタメでさえ、筆一本で稼いで食べていけるのはほんのひと握りといわれる厳しい厳しい世界だ。試しに、エンタメ系新人賞受賞者の3年後の市場生存率を計算してみるといい。まるで終電・朝帰りが当たり前の裁量労働制で働く社畜が己の給料を時給換算するかのような悪魔の禁忌だが、出てきた数字は紛れもない現実だ。
ましてや純文学で身を立てようとするならば、私には想像も及ばないくらいに険しい茨の道が待っているのだろう。人生を賭した並々ならぬ覚悟か、あるいは働かなくても書いていける経済的余裕のどちらかが必要だ。
ただし、純文学の書き手には「その気になれば10万部売れるエンタメも小手先でサラリと書けるさ」というくらいの気概を持っていてほしいと思うし、実際にちょちょいと書けてしまう技量を持ち合わせていてほしい、というか持ち合わせているべきだと思う。
「俺は読者におもねる気なんてさらさらないね。エンタメなんて死んでも書かないよ」
と言い張る人がいるかもしれない。それはそれで結構なことだ。その謎のプライドや根拠のない自信は文学を書き続けるうえでは特質になりうるから、とにかくずっと持ち続けていてほしいと思う。エンタメを書かずにいれば永遠にエンタメの技量を測ることはできないのだから、たとえそれが虚勢であっても、バレることはない。
でも、角田先生に倣って絵画に喩えるとすれば、現実を大胆にデフォルメした斬新な画風で有名なあのピカソだって、天才的なほどにリアルなデッサンを描くことができたのだ。素人にはさっぱり理解の及ばない先鋭的な抽象画の描き手であっても、描こうと思えばリアルな具象画を描ける技量は備えていてほしい。リアルに描けないのではなくて、描かない。何千枚、何万枚のデッサンによって固めたたしかな素地のうえにこそ、見る者があっと驚く前例のない破壊と創造を築いてほしいと思う。
これは果たしてエンタメに携わる者の側から見た、ただの身勝手な願望なのだろうか。
べつに文芸でなくてもいい。優れた純文学の書き手には、別のエンタメ媒体で成功できるくらいの素地を備えていてほしい。音楽、演劇、お笑い、なんだっていい。アイドルでもモデルでもAV女優でもいいしYouTubeでもいい。
その意味で、たとえば尾崎世界観先生やピースの又吉直樹先生らが芥川賞にノミネートされるのは、私は好ましいことだと思っている。あれは、たんなる売らんかなの話題づくりではない。商業主義だ、メディアによる贔屓だと騒いでいるうちはまだまだ青いし、その言説は少なくとも「文学」ではない。生産性のかけらもない。
文芸とは異なるエンタメ分野ですでに成功を収め、第一線で活躍されている方には、少なくとも他人を楽しませることにかけては一流という箔がついている。その分野を極めるために、並大抵でない努力を重ねてきたはずだ。その人が書く言葉だからこそ生まれる説得力というのもあるだろう。文学一本だから偉い、文学一本でなければ書けないものがあるとは私は思わない。
以上があくまで私なりの私見・私論だが、とくに純文学については百家争鳴、異論反論は大いにあると思われる。文学論とは不思議なもので、ここまで書いてきた私自身、筆が乗って気持ちよくなってきてしまっている。これは危ない兆候で、どこかで論理が破綻しているかもしれない。異論反論があればコメントをいただけると幸いだ。その対話、討論が「文学」なるものを深める契機にもなりうる。
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