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名前をつけるのが苦手
拙作『オートロック』と『サンタクロースの不在証明』には、ある共通点があります。
それは「登場人物に名前がないこと」です。
じつは、この時点で二流以下だと断言できます。あくまでこれらは「推理ゲーム小説」として、登場人物たちを記号的に描きたかったため、あえて意図的に固有の人物名を排して書いたのですが、それにしたって反則気味です。
短編だからいいようなものの、これが長編となると、読むのに多大な苦痛を伴うでしょう。
そういえば「私論」には書きませんでしたが、小説には、魅力的な人物名が不可欠です。
登場人物それぞれが固有の名前を持って動くからこそ、その容姿や性格が生き生きと立ち上がってくる。子どもの名づけ親というと大袈裟かもしれませんが、登場人物たちの名前はなるべくなら美しく決めてあげたいものです。
このことは、小説家のわかつきひかる先生も、先日書いておられました。
描写の話も興味深いので、ぜひこちらのnoteもご覧ください。
しかし、この「名前をつける」という作業、私はなぜだかとても苦手なんですよね。べつに全国の名字ランキングに従って「佐藤」や「鈴木」でもいいはずなのに、謎解きを主眼に置いた短編だと、ついつい名前をつけずに「彼」や「彼女」で書き始めてしまう。
「名は体を表す」ではないですが、名前にも言霊みたいなものが宿っていて、イメージが先行してしまうことさえあるので、いざ名前をつけるとなると自信がなくて怯んでしまうのかもしれません。書いているあいだにその名前に愛着を持ち過ぎると、それはそれで邪魔になったりするのは私だけでしょうか。
なかには「ポウ」や「カー」「エラリイ」といったあだ名で記号的に記述して成功を収めている本格ミステリの金字塔のような稀有な例もありますが、標準的な日本語の小説ならば、なるべく標準的な、かつ読者の印象にも残る、リアリティーのある名前をつけてあげるべきなのでしょう。
ただし、リアリティーを求めるとはいっても、実際に起こった事件の加害者・被害者など取材対象やモデルがいる場合には、特定の個人を想起させることのないよう、まったくの別名を使うべきなのは言うまでもありません。
ちなみに、昨今の――といっても十年以上前からの傾向ではありますが、比較的ライトな読み味の文芸ジャンルでは、たとえば「阿良々木暦(あららぎこよみ)」のような、一般にはあまり耳馴染みのなさそうな特徴的な名前で読者を惹きつけようとする手法もあります。
とはいえ、登場人物名にあまり凝りすぎるのも考えものではないかと、私自身は考えています。たとえば神話に出てくる名前を「もじった」名前であったり、いかにも中学二年生が考えそうな凝りかたは、逆効果になりかねないのかなと。そこにこだわるくらいなら、ストーリーの構成にもうひと捻り加えたほうが、よほど建設的ではないかと思います。
わかんないよ!
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