『擬娩』再演 俳優レポート|中筋和調
2019年12月に京都と沖縄で初演した『擬娩』を、2023年2月に東京で再演しました。公演の詳細な情報についてはこまばアゴラ劇場のWEBサイトよりご覧ください。
再演に参加した出演者が、『擬娩』の経験について執筆したレポートを掲載します。中筋和調さんは京都の初演を観客としてご覧いただいており、そして出演者としては今回の再演で初めて参加してくださいました。
『擬娩』俳優レポート|中筋和調
本作の初演をTHEATRE E9 KYOTOで観劇したのは2019年の12月のことだった。その頃の私は割と舞台に近い客席で観ることが多く、最前に近い席で見たような気がする。そして、目の前で起きている(とされる)身体の変容からもろに影響を受け、ものすごく気分が悪くなったのを覚えている。
当時の私にとっては、妊娠という出来事は「自分」という存在を得体の知れないものが侵食していく、ホラーに近い現象であった。当時妊娠期間中であったある女性から、「妊娠をすると体の不調がなくなる」というポジティブな話を聞いても、自分の中にいる別の存在によって、自分の体が否応なしに変えられていくということが恐ろしかった。胎児は、私にとって、映画『エイリアン』のエイリアンのようなものだった。
その数年後、再演版に出演することになった私の考えはかなり変わっていたようだった。私にとって『擬娩』という作品に取り組むことは、自分の心身が持たざるを得ない自意識と格闘することだったのではないか、と今になって思う。
本作の稽古が始まる前、演出の和田さんからいただいた資料に「擬娩」という習俗に関する研究資料があった。それを最初に読んだ時には、全く意味がわからなくて困惑した。ヨーロッパのある地方で行われていた擬娩は、妻である女性は出産後すぐに床から起きて夫を助け、夫はそれに代わって床に入って、妻の苦しみを夫に移す、というものであった。またアジアのある地方では、同じように妻は分娩後直ぐに仕事にとりかかり、夫は妻の代わりに床に入り、あらゆる栄養物で扶養されるらしい。日本にもある「穢れ」の発想はアジアの他の地域でもあるようで、出産は死よりも悪い「穢れ」であるため、その不浄を夫がその儀式によって払拭するのだ、ということらしい。
殺す気か?と思った。一説によると、出産のダメージは全治1ヶ月にもなるらしい。その妻がすぐに農作業などの仕事について、夫は産みの苦しみを擬するとはどういうことなのか。全く意味がわからなかった。休ませてやれよ。そんな風なマイナスイメージを抱きながら稽古場に向かっていた。
『擬娩』の稽古場は、インプットがその稽古時間の半分ほどを占める。経産婦にインタビューを行ったり、妊娠・出産にまつわる本や雑誌を読んで発表を行なったり。その経産婦のインタビューの中で、自分という存在が周縁に追いやられる、というような話があったのを覚えている。お腹が大きくなり、重心が変わり、自分の体が自分のものではなくなる、という実質的な話でもあり、つまるところ、自意識の問題でもあるのでは?と思った。
人生にすごろくの「あがり」があるとすれば、それは人それぞれだろうけれど、私にとっては「自分が主役の人生を終わらせること」だろうと思う。「自分が主役の人生を生きなさい」みたいなことは、もう正直良くって、さっさと「あがって」しまいたい。子どもを産むことで、私の人生は「あがり」になるのではないだろうか、そういう意識があるのだと、その発言によって気付かされた。「あがり」の条件は自意識の消失である(ここでいう「自意識」というのは、自分が限りなく自分であること、揺るぎない自分であることを意識する、的なことであると思っていただければと思う)。自分が自分であるという意識は、妊娠・出産によって奪われるに違いない。2019年の私は、その「自分」を脅かす胎児を恐ろしい・気持ちの悪いものだと感じていたのだろう。
インプットの期間が終了し、様々な伝聞や情報を元に作品を作るぞ!という段になって、ようやく、その「擬娩」という習俗の意味するところがわかってきた。
現状妊娠していない身体を、あたかも妊娠しているかのように考え、振る舞い、扱うことは困難を極める。私は身体女性であるので、「子宮」というもの自体はとてもイメージしやすいのだが、稽古期間中にも生理は来るし(それはつまり妊娠の不成立を意味する)、私は月経困難症の治療薬として低容量ピルを定時服用しているので、基本、妊娠しない。そういう、自分の身体や生活が持ってしまっている妊娠不成立のリアルを、いかに乗り越え、自分の身体に妊娠出産をインストールできるか。自分の身体が持つ、あるいは身体によって持たされる自意識をいかに消し、妊娠・出産に擬えることができるか。
これは本当の意味での「擬娩」では無いのだろうとも思う。夫である男性が、女性の産褥の痛みを演じることで何が起きているのかと考えると、実際に感じていない痛みをインストールすることによって自意識を消去し、自分の人生から「あがる」。「親になる」ための一種の儀式として存在していたのではないだろうか、と稽古期間中には思っていた。
しかしながら、これは演劇である。稽古期間中に『ガラスの仮面』の話が出たことがあったのだが、はたして主人公・北島マヤは「いい俳優」と言えるのだろうか?
少し余談になるが、北島マヤはいわゆる「憑依型」の俳優と言えるだろう。それゆえ、舞台上で何かトラブルがあっても、役として振る舞い、観客を圧倒する。たとえ小道具のおまんじゅうが泥に変えられていても、役として存在しているマヤはその泥まんじゅうを躊躇いなく食べる。彼女は完全に自意識を失い、「役として生きる」ことができるのだろう。けれども、それが本当に「いい俳優」であるだろうか?
本番という回を重ねる中で、演出の和田さんから、改めて「これは他人の話を自分に擬えてしているだけなのだ」ということを意識してほしい、というようなオーダーがあった。あくまで、自意識を保った上での演劇的行為を行う、という非常に難しいオーダーであった。「私は妊娠・出産を演じていますよ」というフリをするのは簡単だが、求められている(と私が感じたもの)は限りなく接近した上で、絶対的に存在する経験/未経験の断絶を越えられない、という様だったのではないかと思う。自意識を失わなければ、私の妊娠不成立の身体を騙せないし、自意識を失ってしまえば、本当の嘘になる。私は自分の人生から「あがる」ことができない、けれども「あがる」擬似体験をする数日間を過ごしていた。
終盤の志賀理江子さんのテキストを発語し終え、テグスを歯で噛み切ったとき、どこかで「私の人生はこれで終わりだな」と思っていた。しかし、その後会場にいる全員を現実に引き戻すための儀式が行われるせいで、まだ私の人生は「あがり」からは程遠いのだと感じさせられる。妊娠出産という(私にとっての)非現実に限りなく接近したつもりでいても、異次元の少子化対策に呆れ、憤る現実の方が、私にとっては余程近い。結局のところ、俳優という存在は自分の人生から「あがる」ことはできないのだろう。舞台の上に立って他者の経験を語る際には、その他者と自分との埋められない差を意識しなければ、演技などできようもないのだから。
中筋和調 なかすじ・なつき
1996年生まれ。大阪府吹田市出身。うさぎの喘ギに所属し俳優と制作を担当。身長152cm。最終学歴は京都大学大学院修士課程修了。会話劇を中心に外部出演も行う。ちょっと疲れたのでこちらの公演をもって俳優としての活動はしばらく休業予定。最近よく聞く音楽はSnail's houseの曲。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を20冊以上、内田百閒の全作品集を2セット所有している。