『擬娩』再演 俳優レポート|岸本昌也
2019年12月に京都と沖縄で初演した『擬娩』を、2023年2月に東京で再演しました。公演の詳細な情報についてはこまばアゴラ劇場のWEBサイトよりご覧ください。
再演に参加した出演者が、『擬娩』の経験について執筆したレポートを掲載します。岸本昌也さんは、2019年の初演、2021年のKYOTO EXPERIMENTにおける再創作、そして今回の再演と、出演者のなかで唯一すべてのバージョンに参加している俳優です。
『擬娩』を思い出し直す|岸本昌也
『擬娩』はこれまでに「初演」「再創作」「再演」と上演を重ねた。
3回やっているのだから『擬娩』とはつまりこういうことである。と、かっこよく言えたらいいのだが、どうやらそういったものは今の自分の中には無く、記憶が多すぎてまとめることができない。
『擬娩』を経験したこの数年間をまるごと思い出してみることにした。
すべての『擬娩』に出演者として参加した経験を振り返りながら、何を感じたのか、何が起こったのかを思い出しながらレポートを書いていこうと思う。
『擬娩』「初演」は2019年12月。
『擬娩』「再創作」は2021年10月。
『擬娩』「再演」は2023年2月。
いまから4年前 2019年3月くらい
何かの帰り道に京都駅の八条口を和田さんと一緒に歩いている時に「今年の冬に妊娠・出産についての作品をつくろうと思ってる。想像上での妊娠、みたいな。よかったら出演しない?」と誘われる。確か信号待ちをしているタイミングだった。
それまでにしたための作品に何度か出演をしていて、和田さんと一緒にクリエイションした経験があったので、おそらくテーマとなる妊娠・出産を調べまくって、いろんなテキストを稽古場でも家でも読みまくるのだろうなと思った。
当時、テーマと自分の距離は遠く、妊娠・出産を自分の事として捉えたことがなかった。
自分ではない体、自分が知らない経験を想像してシミュレーションするというコンセプトが面白そうだと思ったので、その場でスケジュールを確認して、多分信号を渡り切るくらいまでに「参加します」の返事をした。
2019年5月
公演企画書を貰い、作品タイトルである「擬娩」について少し調べる。が、ネットにはほとんど情報がなく「擬娩」という言葉は熟語として文字変換で出ないので、今後たくさん使うだろうと思いPCとスマホに辞書登録をした。それらは今でも存分に使っている。
2019年9月
したため本公演のチラシをいつもデザインしていた。今作もチラシ作成のために和田さんから原稿を貰う。作品の美術を担当する林葵衣さんとチラシビジュアルの相談をする。作品の音響を担当する甲田さんのバンドのライブを京都UrBANGUILDに見に行って、演奏が始まる前に二人でチラシのコンセプトについて、こそこそ話し合った。
まだ稽古も始まってなかったので、妊娠・出産が自分にとって何なのかもピンと来てなかったし、仮にテーマについての知識・経験があったとしても、未だ見ぬ上演を模索するようなコンセプトの作品に対して、説明的・解説的なビジュアルを作ることは難しいと思った(舞台作品のチラシは往々にしてそうなのですが)。その時点で関心を持てるのが「擬娩」という言葉を発語した時の雰囲気や文字の形だったので、そこにフォーカスするように話が進んだ。
擬娩。ぎべん。娩むを擬える〈うむをなぞらえる〉とは?
チラシ制作は林さんと共同で行った。習字セットを取り出して「擬娩」を毛筆したり、文字を印刷して切り抜いたり、インクが少なくなって文字が欠けてしまうプリンタで印刷しまくってみたり、漢字をバラバラにしてパズルを作ってみたり、という一連の作業を繰り返していく。「擬娩」が儀式・習俗にまつわる言葉であるということも最終的なビジュアルに影響したように思う。
2019年10月
東京と関西を往復しながらの二拠点生活をしていた。京都の稽古に合流するための移動の新幹線の車内で『擬娩の習俗』(著:ワーレン・アール・ドーソン/訳:中西定雄/1929年)を読む。
医学が発展していない時代、生命の発生と誕生という未知のものを理解し、受容するため、そして、胎児が生まれ出てくるコミュニティの維持のために妊婦の夫や家族が様々なふるまいをしたのだと想像する。「男性が寝床につき産褥の女性の激痛や苦しみを真似る」「妻の分娩時に夫が大声をあげる」「ゴリラを見るとゴリラを孕んでしまうと信じられていた」等、原始的な行為の記述が並ぶ。読んでいる内容と新幹線で移動しているスピードのギャップにクラクラしてしまい、最後まで読む前に京都に着いた。
2019年11月
『擬娩』「初演」の本格的な稽古が始まった。他の出演者と初めてお会いする。
この時はだれもマスクをしていなかった。
稽古場での記憶は膨大で、とにかくずっと喋りまくっていた。
妊娠・出産への距離は遠く、わからないことだらけだった。自分が「生まれたこと」は事実であるのに、「産むこと」を何も知らない。稽古場に行くたびに新しい知識に驚き、自分はそんなことも知らなかったのかと落ち込むことも。リサーチの時間を存分に取り、聞き、話し、共有しないと「擬娩」はできないだろうという実感があった。
出産経験がある方に話を聞く。「こんなことだれにも話したことなかったわあ」という声が印象に残っている。
妊娠に気づいたきっかけ、ホルモンに乗っ取られ違う誰かになっていく感覚、体内に別の人間がいることによる主体の移動、内臓と骨と皮膚が変形していく様子、社会的な弱者になること、変化する視界、何をするにも以前より時間がかかってしまう体、胎児につける仮の名前、最初の胎動はお腹の中で泳ぐ金魚のよう、トラックと象に踏まれているような痛みで爆散してしまう腰、娩出後の胎盤の味と食感。
とても微細でプライベートなことを話してもらった。
雑誌「たまごクラブ」の読書会をする。1冊の「たまごクラブ」カッターで分解して、それぞれ宿題として持ち帰る。自分が担当した箇所に何が書いてあったか、どんな知識を得たかを発表するワークをした。
胎児の発生から娩出までの推移、母体に起きることの変容グラフ、妊娠中やっていいこと&ダメなこと100選、パートナー(主に夫)に向けた小冊子、出産までに準備することリスト、妊婦向けの料理レシピ、妊娠エッセイマンガ、妊婦モデルグラビアページ、つわり体験談と対処法まとめ、妊娠・出産に必要なお金と財テク、母子手帳入れとマタニティーマークの付録、流産・中絶について、多胎児について、マタニティーグッズの広告、赤ちゃん向け教材の広告、安産祈願の寺社の広告、などなど、、、
現代の『擬娩』の教科書と言っても過言ではないくらいの、ものすごい情報量だった。
クリエイションメンバーには生理(月経)の経験者と未経験者がいた。私は未経験者だった。
生理痛がどんなものなのかを言葉と身振りで説明してもらう。生理痛に似た痛みを自分の中に探す。内臓の痛みは説明するのが難しい。生理にまつわる風景や感触をかたち作っていく。生理用品が闇取引のように水面下で貸し借りされたり、コンビニやドラッグストアで買う際に無言で紙袋に入れられたりすることを知る。
生理日や排卵日、妊娠しやすい時期・妊娠しづらい時期を教えてくれるアプリ「ルナルナ」をスマホにインストールする。体温の上がり下がりや、体調変化の予測についての通知が毎日届く。あたたかい言葉で日々をエンパワーメントしてくれる。架空の月経を自分の体の中に仮設する。湯船には浸からずシャワーだけにする日を設定してみる。白い服や白いタオルについて考えを巡らす。血液を効率よく落とす洗濯方法を検索する。
『擬娩』を支えるのは、通り過ぎてしまいそうなディティールをキャッチして留めること、なのかもしれない。
「もし今妊娠したら?」というレイヤーを自分の日常に重ね合わせてゆく。再現を試みて、失敗する。大きくなっていくお腹を想像して、それが妄想だったと気づき、最初に戻ってまた想像を試みる。
自分にとっての大きなトピックは、体の構造と機能だった。
子宮・生理・妊娠・出産についてシミュレーションしても、自分の体は妊娠・出産を引き受けることができない。生まれつき、無い。子どもを望むかどうかについて、当時の自分は考えたことがなかったが、将来そういった望みが湧き起こった時、遺伝上の実子を望む場合は自分ではない人に産んでもらうしか方法がないことに、なんとも言えない不均衡を感じた。
そして、そもそも自分に生殖能力があるのかどうかも分からない。
それまでの人生の中で気づかずに過ごしてきた、あたりまえのことに立ち返り、確認する。
膨大なリサーチと日々のニュースを摂取する。ため息が出るような話題も多かった。
脇道が多すぎて、作品中で妊娠・出産に関わるすべての事象を扱うことはできないと気づく。
個人の体として抱え切れない、つらいトピックや、理解し難い言葉たちが稽古場に散らばっている。和田さんはそれらを拾い集めて「ららばい」と名付けられたテキストを作った。みんなで覚え、発語してみる。テレビをザッピングするようにイメージが切り替わる。そのシーンは作品の最後に加えられた。
妊娠・出産のシミュレーションを終え、ヘロヘロになりながら未経験のままである体に帰ってくる。陣痛にのたうち回ってシワシワボサボサになった出演者は、のろのろと車座に座って、顔を見合わせるでもなく、ぶつぶつと「ららばい」を唱えた。
手を前に出し、舞台美術に突っ込む。拘束されているので自然と合掌になる。
産めよ殖やせよ…産めよ殖やせよ…生産性…生産性…
今、「初演」の「ららばい」を読むと、稽古場で何に困惑し、怒っていたか、肌感覚が蘇ってくる。「ららばい」のシーンは、避けられない困難を乗り越え、誰もが無理解な言葉に苦しむことなく、どうか、より良くなりますように、という祈りのようなテンションでやっていた。
2019年12月
THEATRE E9 KYOTOにて京都公演。アトリエ銘苅ベースにて沖縄公演。
初めて訪れる沖縄でひとつ歳をとった。劇場仕込みの夜、みんなが祝ってくれて嬉しかった。
誕生の過程を携えながら、誕生を祝われるのは面白い経験だった。母にLINEをした。
2020年 初春
いろんなことの中止が決まる。
ああ、劇場での演劇は終わったなと、思った。
東京の家を引き払い関西に拠点を移す。
妊娠中の姉との同居が始まる。コロナ渦での妊娠・出産に伴走する。
2020年 秋
姉が出産。姪がこの世に登場した。
これだけの大きさの命を体の中から出すという途方もない規模感に改めて驚異を感じた。
家中のすべての行動の中心が、新生児と産褥に伏せる母体になり、時間の流れが小刻み且つゆっくりとなる。家の外の世界から穏やかに隔絶される。家の中にあったあらゆる境界が溶け合う。新生児へのケアを介して母体への強い共感と連帯を得る。大人たちが物理的・精神的に寄り集まり静かな集中力を研ぎ澄ませ、やがて「家が身籠る」。
家族全員のバイオリズムと呼び名が変わる。
姉は母になり、弟は叔父になった。
2021年2月
初演から約1年が経ち、『擬娩』「初演」レポートの執筆を依頼される。
1年前のことを思い出しながら書き進めた。演技は消えてしまうものなので、なんとか書き残さねば、という気持ちがあった気がする。未経験者として妊娠・出産に臨むこと。演じる上で、借りてきた妊娠・出産を私物化しないことをまとめています。
2021年8月
『擬娩』「再創作」が始動する。
KYOTO EXPERIMENT 2021 AUTUMN にて『擬娩』を上演するため、メディアアーティストのやんツーさんをコラボレーターに迎え、10代の出演者を公募でキャスティングしてのリクリエイションだった。
オリエンテーションとして数日間ワークショップをする。
「初演」の映像をみんなで見た時に10代の出演者から「こわい」という感想が出た。ちょっとショックだった。同時に、なるほど、とも思った。和田さんは、作り手が妊娠・出産を畏れていたからかもしれないと分析。
私は一度『擬娩』を経験し、そして圧倒的な未経験のままであることを感じていた。メンバーはそれぞれ異なる外見や属性を持っていたが「未経験」という出発点は同じである。妊娠・出産に対するそれぞれの距離感とリアリティをもってワークに臨んでいけそうな気がした。
やんツーさんの作品には、ロボットや自動で動く機械が登場する。それらは一見無機質なようで、とても人間的な愛らしさがある。最初に紹介された作品の中に「すごく遅く走るミニ四駆」があった。ちょっと離れて見ると進んでいるか分からないくらいの速さ。指数関数的に進歩してゆく様々な技術に、ちょっと待って、と抵抗するかのように遅く走る小さな躯体。
想像力の再起動。『擬娩』の試みと似ている部分があると感じた。
2021年9月
10代の出演者は学校に通っている。授業を終え、部活を終え、電車に乗り、稽古場である京都芸術センターにやってくる。日常と『擬娩』を行き来する。稽古は主に平日の夜と休日に行われた。
未成年という意味において、どちらかというと産む側より生まれた側に近い彼らと『擬娩』を共有する。
「もしいま妊娠したら?」という問いかけに、「学校の友達にはちょっと言いにくいかもしれない、部活を休まなくてはいけない、大学に行きたいと思っていて受験が近づいている」と答えが返ってくる。演劇のフィクションを借りすぎない、現実と地続きの姿があった。
学校での性教育の様子を聞いた。女子生徒が教室で授業を受けている時に男子生徒は外でサッカーをしていたんだそう。知りたいことが教われない。自分が学生の時に感じた分断はいまだに習慣のようなものとして学校の中に残っているらしい。
しかし、個人としての情報収集の仕方は最新のものだった。「避妊に失敗してしまった時の対処法についてのドラマ仕立ての映像」を見つけて稽古場にシェアしてくれる、Zoomを使いこなして授業を受けている、メディア上のウザい広告やトレンドから逃れるためにSNSアカウントの設定を見知らぬ海外にするというライフハックも飛び出して、デジタルネイティブを目の当たりにした。
稽古場には、やんツーさんが持ち込んだ様々なマシーンがうごめいていた。彼らは、彼らなりの「擬娩」を行いながら、人間との境界線を越えて、交じり合っていく。3Dプリンターがせっせと胎児の顔を形成する横で、セグウェイがゆらゆらと演技をしている。
稽古の中で「シンギュラリティ」という言葉を知った。人工知能や機械技術が発展し人間を超えていく転換点のことらしい。妊娠・出産においては、人間が子宮を使って胎児を育てるシステムを使わなくてよくなるタイミングがくるかもしれない、私たちが死ぬまでにそれが実現するかもしれない。
稽古場の机の上には、妊娠・出産にまつわる様々な書籍、擬娩の習俗の資料、雑誌「たまごクラブ」、保健体育の教科書、中学生のメンバーが自ら書いたコミックなどが並んでいた。みんなが持ち寄った資料が集まる「擬娩図書館」のようだった。
『マザリング 現代の母なる場所』(著:中村佑子/2020年)を読んだ。著者が「母」という言葉を解体したいという思いから書かれた本で、子を産んだ人、産まないと決めた人、流産を経験した人、父親、養子を育てる人などにインタビューをしている。
「マザリング」とは子どもや傷ついている人、弱い存在をケアし守る行為とされ、そこに性別は関係ない。当時、0歳児と同居していたこともあってか、その考え方はすぐに自分の中に浸透した。母ではない自分が子に手を差し伸べること、妊娠中・出産直後は一時的に社会的弱者になってしまうこと、そして自分が弱い存在になった時、他者への依存を拒否せずに自らの弱さを受容することについて考えた。
姉に妊娠から出産までの経験をインタビューした。コロナ渦での入退院や、不安定な状態のエピソードを聞き取っていく。インタビューメモは8000字程度になった。
「入院した日から日記つけてるわ。もしかしたら死ぬかもって思ったんやと思う」「コロナのせいで夫とはほとんど会えなかった」「救急車の中で泣いた」「点滴の針を刺しまくった腕の血管痛ははっきり思い出せるんやけど、陣痛は血管痛の痛みほどははっきりと思い出せない。多分痛すぎてショックで忘れちゃったんやと思う」「マスクの上から酸素マスクつけていいんやったっけ!? って看護師さん同士でドタバタしてた」「産んだ後にお腹押すと下からジャーって血が出んねん。それを1時間ごとに繰り返す。私スポンジみたいって思った。人間の体ってすごいわ」
後日、稽古場でインタビュー内容をクリエイションメンバーに共有する。その際「お姉さんを演じながら話せますか」というオーダーがあった。寝ている姪をベビーキャリアで抱え、スマホの日記を見ながら過去の経験を話していた姉の姿を思い出す。その姿をトレースしながらエピソードを全部話すのに50分くらいかかった。
「姉を演じること」は自分にとって、とても重要なことだった気がする。身近な人を細かく捉え直しながら思い出して、長い演技をする体験はそれまでやったことがなかった。「演じる、とは、擬えること」がスっと体に浸透した。
「初演」でも話題に上がった、流産について改めて考え直す。
流産は全妊娠の10%程度の確率で起こる。高い確率で起こるのに、その頻度や状況をほとんど知らなかった。自分の無知と、教わる機会がなかったことへの憤り。
日常生活での視点がまたひとつ更新される。
自分の隣にいる人は、かつて、そういう経験をしたかもしれない。
「再創作」では流産についてのシミュレーションをして、シーンの中に組み入れた。
「もし〈そう〉なったら、こういう痛みと事実が襲ってきて、私は多分こう思う。このエピソードは借りているもので、本当に起こってはいないのですが、今実際それを「擬娩」するとしたら私の体はこんなふうになってしまうと思うんです。」という作業を繰り返す。
『擬娩』では妊娠・出産への様々なアプローチを行っているが、流産については試み方が少し違う感じがする。意図せず経験者の感情にアクセスしてしまうから、なのかもしれない。事実や現象はシミュレーション出来るが、感情は究極的には分からないし、勝手に踏み入ってはいけないので迷子になる。ぐるぐると周辺を歩き回るしかない。
距離感を保ちながらも、自分の中の共感が軋む。
2021年10月
公演に向けて毎週抗原検査をしていた。
私は妊娠検査薬を購入、使用したことはないが「結果が出るのを待つ数分間」を体験する。意味は違えども「陽性/陰性」への距離感が変わる。
京都芸術センター・講堂にて上演。
たくさんの情報と会話に想像力を支えてもらいながら、妊娠出産についての情報を体の中にストックさせる。エピソードはあくまで借り物なので、勝手に改変しないように静置する。
舞台出演の際、あまり緊張しないタイプなのですが、『擬娩』は特に緊張しない(と言うと何か語弊があるように聞こえるが、実際そうだった…)。それは、私にとって『擬娩』という作品が、固定された演出に正答したり、与えられたタスクをクリアするものではなく、日常を試行し続けることだったからなのかもしれない。また、それらを支えて静かに見守ってくれるメンバーにも改めて感謝をしたいと思った。
常に「私」を参照し続けること。その「私」の中には稽古場で借り受けた妊娠・出産のエピソードがぎっしり詰まっていた。
2022年2月
新型コロナウィルスに罹患する。味覚障害が1ヶ月ほど残った。私の場合は食べ物から甘味が消失し、口の中にずっと苦味が残った。仕事中にいつもカフェオレを飲んでいたが、美味しく感じることができず飲まない期間が続いた。『擬娩』のつわりを思い出す。感覚が変化し、食べたいものが変わる。感覚の変容を、言葉としては伝えられるが、実体としては想像してもらうしかないことに、もどかしさを感じた。
2022年10月
0〜2歳児が主な観客となる「ベイビーシアター」の舞台作品に出演する。お客さんが赤ちゃんなので本番が始まるまで上演がどうなるか分からない。
「家が身籠る」とはまた違った集中力で「劇場が身籠る」ことを経験する。
2022年11月
「再演」のチラシを作成し始める。またしても、音響を担当する甲田さんのバンドのライブを京都UrBANGUILDに見に行って、演奏後に、美術を担当する林さんとチラシビジュアルについて相談。林さんが感銘をうけたという美術家エリック・ゼッタクイストの作品を出発点にして「人間をポートレイトする」というコンセプトはどうか、と話が進む。「初演」の舞台写真を閲覧し、コンセプトに沿って写真を切り取り、抜き出し、作業を進めた。
手つき/枠の向こう側/糸/みえないもの/手渡す/受け取る/一部が全部、等の『擬娩』「初演」に登場した見た目の要素を整理していく。途中、ビジュアルが新手の生物のようなおぞましい雰囲気になってびっくりしたが、最終的にはエコー写真のような雰囲気に整頓した。
2022年12月
自室の本棚から「初演」と「再創作」の台本を引っ張り出し、パラパラと見返す。
「高齢出産」という言葉に明確な定義はないものの、30代半ばから妊娠に関するさまざまなリスクが相対的に高くなる。自分の年齢がその段階に差し掛かっている。ちょうど誕生日がきてまたひとつ歳をとる。
「男性 出産 適齢期」と検索すると一番に飛び込んでくるのが「男は何歳まで妊娠させられるか?」というトピックで、これを調べる人は男性の生殖能力の経年変化について知りたい人が大半であるだろうし、言葉の意味としても間違ってはないのだが、なんとも凸的というか、女性の場合とは妊娠・出産へのベクトルが異なることを思い知る。同時に、自分の体に割り当てられた押し付けがましさ、「強壮、壮健であれ」という無言のメッセージにうんざりする。
『擬娩』「再演」の顔合わせがあった。
初めての方とお会いする。和田さんが公演の概要と「ハラスメントについて」のレジュメを配る。いつだって、嫌だと感じることを、気兼ねなく言えて、静かに耳を傾けられる創作現場がいい。
2023年1月
『擬娩』「再演」の稽古が始まる。3回目とはいえ、やはり未経験のままである。
新しいメンバーとともに「初演」のシーンの流れをベースに『擬娩』を組み立てていく。
「初演」の時に稽古場でホットだったトピックはもうリアリティが失われている。自分の体と考え方も以前とは変わっているので、ナウな自分で率直に『擬娩』を試みる。
新しい「たまごクラブ」を買って、稽古場で読み回す。数年経つと雑誌の形態も内容も変わっている。2022年版は初期・中期・後期の3部作になっていて、3冊とも買った。
雑誌に掲載されていた「AR赤ちゃん」なるものを稽古場で試してみる。胎児がどれくらいの大きさになるのかを仮想現実で示してくれるアプリ。週数を設定して稽古場に胎児を出現させる。フローリングにフヨフヨとただよう小さい胎児になんともいえないSF感を感じつつ、この作業は家族やパートナーが「擬娩」を始めるきっかけになると思った。
寒さのせいか、体の不調を感じていた。体をあたためながら稽古を進める。
とても重い生理痛についての経験を聞く。以前読んだ『マザリング』のことを思い出した。現代の都市は健康な人が生活を送る前提で管理されていて、そこからはみ出してしまった「濡れたぬるぬる」が排除されているという記述があった。「濡れたぬるぬる」とは、授乳をする人・赤ちゃんだけではなく、病気を抱える人、介護を受けている人を指し、その中には妊娠している人、生理が起こる体も含まれている。
月に一度、内臓から出血があり、体と気持ちが変調してしまい、それらを自己意思で制御することができない。稽古場では「1ヶ月のうちにこんなにいろんな状態になる中で、健康で現代的な独立した個人を獲得することなんか無理じゃない?」という会話があった。「独立した個人」というのは「月経がなく、妊娠しない人」が規定している考え方なのかもしれない。
10年ほど前に椎間板ヘルニアになった時、椅子に座れないので寝そべりながら大学の課題をしていたこと、バスに乗っている時も腰が痛くて座っていられず自分の体や痛みにイライラしたこと、腰痛自殺を検索したことを思い出す。そういった負荷が自分の内臓から襲ってきて制御できないものであるなら? そして、その痛みが万人に理解されない場合どのようにして自分の体と折り合いをつけて生きればいいのか。
生理の痛み、流産の痛み、分娩の痛みを、自分の体の中に探す。
『月経と犯罪』(著:田中ひかる/2020年)を読んだ。真っ赤な帯には「生理の時、女はカッと頭にきて何をするのかわからない」「生理の時に女は万引きや放火をする」という文字があり、面食らう。女性は生理があるから罪を犯すと信じられていた時代があったことに驚く。ダーウィンが提唱した一連の「進化の担い手は男性であり、男性は女性より優れている」という論旨に影響を受けた医師や研究者が、女性の犯罪はヒステリーによるものだと決めつけてきた歴史があった。ヒステリーは「子宮」を意味する古典ギリシア語が由来だそう。
そんな馬鹿な、と言いたくなるような歴史があり、その歴史は多少薄まったとは言え、依然として私の周りに細かく散りばめられているように感じる。『擬娩』を通して今まで気づいていなかった日常にかかる靄(もや)が可視化されてゆく。
出産経験のある方からの話を聞く。「初演」「再創作」で伺ったお話も参照しつつ、新しい方にもお話を伺う。とにかく驚きの連続だった。
「世の中の男、全員土下座しろって思った」という言葉には驚いた。また、出産後、娩出された胎盤の写真を見せてもらった時は衝撃だった。出産した赤ちゃんと同じくらいの大きさの赤黒い臓器の塊を医師が魚を生捕にしたかのように掲げてる構図の写真だった。子宮という臓器の拡張性に驚愕した。
京都に大雪が降った日、電車内に長時間閉じ込めのニュースを見てビビってしまい、次の大雪予報の時、稽古場の近くに宿をとった。ホテルのテレビで夜のニュースを見た。厚生労働省の専門部会が中絶のための飲み薬「メフィーゴパック」の製造販売を承認したニュースだった。これまで人工中絶手術として行われてきた吸引法(子宮の内容物を吸い出す)と、掻爬法(子宮の内容物を掻き出す)以外の選択肢として妊娠9週目までの初期妊娠に使用できる人工中絶薬。雑誌「たまごクラブ」にも中絶方法についての掲載はあったが、中絶に関するワークはこれまでしていなかった。ニュースの内容の稽古場で共有する。
その数日後、緊急避妊薬「レボノルゲストレル」のスイッチOTC化(Over The Counter/これまで医師の診断と処方が必要だった薬を、ドラッグストアなどでの購入を可能とする)へのパブリックコメントの締め切りがあった。
それらと前後して、新聞には「異次元の少子化対策」「育休中のリスキリング」という言葉が踊る。すでに頭はパンクしている。
「メフィーゴパック」「レボノルゲストレル」「異次元」「リスキリング」は、言葉を変えて「ららばい」に新しく追加された。
2023年2月
こまばアゴラ劇場にて上演。
約一週間の東京滞在の宿は下北沢だった。ちょうど演劇祭で賑わっていた街を体感して明るい気分になる。
公演期間中、連日開催された終演後のトークには興味深い話題がたくさんあった。楽屋のスピーカーから聞こえる内容に耳をすませる。
「上演中、演技する出演者を見て、つわりってこんなもんじゃねえぞと思った。と同時に、妊娠中である自分が『擬娩』を試みる未経験者に対して特権的な感情を持ってしまっていることに驚いたし、ショックだった。」
「全ホモサピエンス必見。『擬娩』は私たちが生きる全てのことにつながっている気がする。自分に子どもが居ても、妊娠・出産はどんどん遠のいて、忘れていってしまう。『擬娩』は2年おきくらいにやったらいいのでは。」
「この作品は出演している人たちが一番学びがあって楽しいんじゃないですかね」
2023年 春
『擬娩』という作品・稽古場・上演の経験について、自由にお書きください。というお題でレポートを書いている。
まるごと思い出す、という試みを始めてから30日ほど経っている。まだまだ思い出せそうな気もする。果たしてこのやり方があっているのかわからない。けれど、ここから、何かを要約したり、面白いエピソードだけを抜き出すのもなんだか違う気がする。
『擬娩』の経験は、作品の出演経験として独立しているわけではなく、日常のあらゆる感覚と行動に密接に関係している。日常と作品が相互的に感化し合う。
いろんなタイミングや奇跡が重なって「どうやって生き続けるか」「どうやって演じ続けるか」を考える数年間だった。
『擬娩』を上演する折に触れて、宣伝文や上演の感想には「正直に、愚直に、素直に」という言葉が見受けられる。その言葉に追い風を受け、励まされてここまでやってきたように思う。なんとなく、が通用しない。回避できない。誤魔化せない。嘘がつけない。勝手に分かった気になれない。分からないからトライし続けなければならない。『擬娩』とは未経験であることを経験すること、なのかもしれない。
2023.4.5 岸本昌也
岸本昌也 きしもと・まさや
滋賀県出身・在住。京都造形芸術大学情報デザイン学科卒。座・高円寺劇場創造アカデミー修了。俳優として、地点、エイチエムピー・シアターカンパニー、したためなどの作品に出演。自身の出自である神楽の身体性を使い、パフォーマンス作品を発表するとともに、古典芸能・郷土芸能のリサーチを行う。京都瓜生山舞子連中所属。また、グラフィックデザイナーとして演劇のチラシや、劇場の広報物などを作成し、『広がるフライヤー』(ビー・エヌ・エヌ新社)に作品が掲載される。
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