祖父の面影───母方の祖父の話
私が産声を上げるずっとずっと昔に亡くなった母方の祖父は、謡曲に長唄、書にお琴にヴァイオリン、果ては自分で家まで建てるなど、1家に1人いれば安泰のハイパー万能人間だったらしい。
実際、母は祖父の建てた家で生まれ育ったという。
今でもその家は存在していて、当時急行扱いだった電車越しに見たのを憶えている。
丸い眼鏡をかけた壮年の男性が、自身の背丈の7~8割ほどはあるだろうお琴を抱えて立っている。
少し褪せて茶色味を帯び薄くなったモノクロ写真を手に取り眺めながら、それは大事そうに触れながら話す声が唯一温かみのある声だった。
だいじなだいじなたからものを、こっそり共有するような声だった。
常に鋭く恐ろしさを感じる目が、祖父の逸話語りをするときだけはとても嬉しそうに緩み、きらきらと煌きながら穏やかな色を宿していた。
私は祖父の人となりを知らない。
私が生まれるより以前にその人は眠りに就いているから、こうして母の記憶に残る祖父の面影に想いを馳せる以外方法がない。
いつ何時も極限状態で生きている人だった。
私にとっては唯一神といっても過言ではない影響力を持っていた。
今でもその効力は発揮されていて、衰えることがない。
そんな母が本当に心の底から嬉しそうに楽しそうに話す祖父という人に、私も会ってみたかった。
早逝した彼が存命であったならば、母も穏やかだったろうに。
「あんたらには何でもできるおじいちゃんの血が通っとるんよ」
祖父の話をするとき母はよくこう言った。
祖父の子である母ら5人兄弟も、芸事にはそれなりに強いという。
伯父は音楽の審査員を幾度も努め、おうたがすきな当時の私にお古のカラオケセットをくれた。
母自身、日本舞踊と絵に秀でていた。
伯父に続き音楽も鋭敏で、更には服飾分野においても造詣が深く、ヒラから後に店舗を一任される手腕を持つ当時のキャリアウーマンだったらしい。 父に捕まってしまったが故に母はそれら全てを手放すことを余儀なくされたが、私がうたに、妹が絵に向かうのを見ては、ああお父ちゃんの血だと思うのだと。
今思えば、祖父の血を最も色濃く継いでいるのは母自身だと思うのだけれど、当時の私はただ純粋に、“母がこれだけすごいのだから、そんな母がすごい人だったと自慢する祖父は一体どれだけすごいのだろう”と胸が躍るばかりだった。
同時にこう思った。
かぞくっていいなあ。
なんでうちはこうなんだろう。
いつ何時も極限状態で生きている人だった。
あらゆる全てが怒涛の如く襲い掛かってきて、とても1人では対処しきれないというのに頼れる手も術もなく、かといって総てを投げ出して駆け込めるような寄す処もない。
常に選択肢は「こなす」以外存在しない。
半ば発狂や錯乱ともみえる凄まじさを帯びていた。
幼いからと侮る無かれ、私のような出来の悪い子でも物心がつく前から自分の家は異常だと気取ることはできるのだ。
母はいつも追い詰められていた。
父に遠くまで聴こえるような大声で日々常々理不尽に怒鳴られていた。
時折耐えきれず2、3物を投げつけては私と妹のいる部屋へ駆け込み泣いていた。
私の記憶の中に、本当に心の底から笑えている姿の母はほぼいない。
四半世紀をともに過ごした今までの長い時間を埋め尽くすのは、あのよく通る怒声と、平均3、4時間延々とこちらを怒鳴り散らす姿と、鬼神の如き働きぶりと、惨めさと情けなさと理不尽が降り積もりさめざめと涙を流し泣く姿ばかりだ。
祖父の話を──自分の父を自慢するときくらいだった。
あの嬉しそうにはしゃぐ姿だけが、母が本当に心の底から笑えていると思えるものだった。
私はもっとそんなあの人を見たかった。
無邪気に笑ってほしかった。
力を振り翳すばかりで親や人としての役目も果たせない父とも一緒に頑張りたかった。
自分より体格よく育って力負けする妹とも仲良くいたかった。
父とは到底呼べないあの人と、母と呼ぶのを躊躇うほど純真すぎたあの人と、あの子と、4人でちゃんと家族になりたかった。
笑いたかった。
お花畑と嘲笑わば嗤え、この願いをただ一心に、私は二十歳を越える頃まで生き延びたのだから。
いっしょにわらいたいと思っていた。
けれど、それ以上に。
あの人には幸せになってほしかった。
苦心して築き上げた止まり木を奪われ、巣も腐り落ち寄る辺を失くしてしまったあの人に、何よりも。
やりたいことをやりたいように、好きなように。
自由に羽撃いてほしかった。
ただ、それだけだった。
あの人の誇張などない地獄の日々は、祖父が倒れたところから始まった。
半身不随になった祖父を、死んでしまうその日までのほとんどを1人で介護したのだと。
母が、あの人が九つのときのことだったという。
その日を境に、数多の可能性が幻と掻き消えてしまった。
もし祖父が存命であったならば、あの人が受けた苦行の大半はなかっただろうに。
父に捕まることもなかったかもしれない。
私がうたに向かうところに祖父の血を感じていたあの人は、私に対しきっとかなりの期待を抱いていたのだろう。
もしくは私ではなく、私を媒介にして記憶の中に在る祖父と会っていたのかもしれないと、今になって思う。
私の音楽が物語音楽や民族調に寄っていく度に、あの人は強く反発し、手ひどく詰ってきた。
あの人たちがずっと聴いていたから、歌謡も演歌も好きだ。
あの人のいう「普通の曲」を演らない今でも私の根幹であり、その型は私の1番深いところに根ざしている。
謡曲は1度も聴いたことがないので分からないが、長唄は先日初めて動画で拝聴した。
どこか懐かしく、よく馴染む。
好きだと思う。
それでも、「好き」と「演りたい」は違う。
同じ場所にあるけれど、違うものなんだ。
祖父に関するものは私の手元には1つもない。
祖母が病死したときに、父に邪魔されて死に目に会うことも叶わずお棺の傍らで涙する母をよそに、葬式で初めて会うような親族たちが次々と片付けと処分をし始めて、かたや引き取りかたや押し付けとしたらしい。
貧困版お家騒動だと、聴かされた当時思った。
叔父と叔母が母と話すのを聴いただけで私は体験としては知らないけれど、祖母はよく闇金のカモにされていたらしく、自分たちの職場まで取り立てにやってきて大変だった苦労したと零していた。
母も知らない親族たちから見れば、そんな祖母のことだから、ということなのだろう。
そうしてあの人にとっての僅かな平穏の証は、縁遠い人の手によってサクサクと処分された。
あるものは売りに出され、あるものは捨てられ。
手元に残せたのは、祖父の手作りしたもので、祖母がずっとお仏壇で使っていた蝋燭立てだけだという。
あとは元々母が大事に持っていた数枚の写真くらいだろう。
私は祖父の人となりを知らない。
彼の人がどんなことをして実際どんな業績や実績を残したのか、私が知る方法はもうどこにもない。
かつて私にカラオケセットをくれた伯父は祖母より先に逝ってしまったし、存命の伯母からは祖父が話題に上ることもなく、叔父と叔母はそもそも遠方で連絡先も知らない。
祖父の話をするのは、いつも母からだ。
けれどその母と祖父の話をする機会もおそらくもう2度とない。
父に端を発し皆それぞれに地獄を味わいながら20年を生きた4人家族のお話は、一家離散という結末で終わった。
私もあの人も、年月を経て相当拗らせてしまっている。
もう冷静に話もできない。
もし祖父が存命であったならば。
せめてもう少し長命であったなら、あの人が心の底から笑えているのを見ることができただろうか。
自身の好きなことをすきにやって、元気に輝く姿を間近で見られるなんてこともあっただろうか。
…私にも、何か教えてくれただろうか。
今となってはもう分からない。
私は祖父の人となりを知らない。
あの人が──母が語った、母の記憶に残る祖父の面影以外、私は何も知らない。
知る術もない。
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