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自己紹介|はじめてのnote
はじめてのNote
私は芸術に関する活動を行なっていてそこで物書きもしているが、自由気ままに思ったことを書くため、匿名でNoteを始める。
小さい頃から好きだった作品がいくつもある。
それを、つい最近観なおす機会があった。
当時から私は、自分の仮説を自分で破壊するのが好きだった。
白黒はっきりさせることが自分には合っていると思う。
すっきりするし、ストレスフリーだ。
だけど、面白くない。
認めたくないが、私にとっての面白いことは
私が受け入れられない問題にぶつかることなのかもしれない。
だから、白黒はっきりできないグレーゾーンにもやもやする自分が好きだ。
答えの出ない矛盾した世界を考察することが好きだ。
ただ、当時は知識がなかった。
知ることはいっぱいあっても自分の中で咀嚼できなかった。
なのに最近急に本を要約できるようになった。
作品を構造的に理解するようになった。
観なおした作品も、
私が当時思っていたものより複雑で、
構造的で矛盾に溢れたものだった。
歳を重ねると何故か分からないが急にできるようになることがある。
階段を1つ飛ばしながら降りるとか。
あるきっかけで、日常の中で燻っていた「悪」が表出する。
ただし、それはきっかけにすぎない。
ふと、「この人ならやりかねない」と思う。
それはやる前からそういうイメージを持っていたからだ。
災害をきっかけにしてデマが流れる。虐殺が起こる。
今読んでいる本は『地震と虐殺 1923-2024』(中央公論新社)という本だ。
自分の住んでいる街で虐殺が行なわれた。
その事実と向き合うことが難しい人がいる。
私もかつてそうだった。
日本帝国時代の歴史を学んでいる時、すごく苦しかった。
なんだか自分が責められている気がした。
日本人であることがどうしようもなく嫌になり恨んだ。
どうしたら、その時代を生きていない日本国籍保持者が
加害責任を負うことができるのか。
逃れられない罪からの重圧に押しつぶされそうになった。
被害当事者と対峙した時、相手を脅威だと感じた。
「彼らは堂々と生きて良いんだ、なぜなら被害者だから」
そう思った。それを羨ましく思った。
しかし、彼らと対話を重ねるうちに、
(もちろん彼らが受けた/
受けている凄惨な事実を矮小化したいわけではない)
彼らにも「加害性」を持つ可能性があると知った。
日本国籍で分けるなら被害者かもしれないが、
男女で分けるなら加害者にもなりうる。
体格差は一目瞭然だ。自分より大きな人は怖い。
子どもと大人で分けることもできる。
重要なことは、それを自覚すること。
人間だれしもが、善意を以てしても「加害性」を孕んでいる。
それは辛いことだが受け入れるしかない。事実だ。
それを自身の中に認め、
過ちを二度と起こさないよう努めることこそが
戦後の日本を生きる日本国籍保持者の
「加害責任を負うこと」
なのだと私は自分の中で結論付けた。
だから私は学び続けるし、考え続ける。
批判には真摯に向き合う努力をする。
身体への負荷は計り知れない。
ストレスフルだ。だが楽しい。
世界で一番難しい問題を解いている気分。
社会を見ていると、どうしようもない気持ちになって
楽しんでしまうことが悪のように感じる時もある。
でも、楽しくないと続けられない。
しんどい状態で居ようとすると
そこばっかり気になってしまう。
事態は深刻だ。しかし持続可能でないといけない。それは難しい。
最近、何をしていても胃へのストレスを感じる。
Noteを始めたのもそれが理由だ。
楽しくてもどこか辛い。
同棲しているパートナーは私がいると空気が濁るのが分かる。
相手はそれでも私のことを好いてくれているし、
関係も良好であるけれど、
精神障害を持っている私と向き合うのは大変なのだろう。
相手も余裕のある人じゃない。
そんなことで、と思う部分もあるがイライラさせている事実に変りはない。
それは私の望んでいることじゃない。
だからしんどい。会ったらまたイライラされてしまう。
私の存在そのものが否定されている気がする。
時間が解決するのかは分からない。
だけど、とにかく今は独りになりたい。
自分の中に引き籠りたい。
楽しいと思えることは沢山ある。
内臓が苦しいと言っている。
ゆっくり、休みながら、
だらだら書いていく。
自分のケアをする、これが私の今の目標だ。
おしまい