あなたのレイコンの似顔絵を描く | 山本精一ライヴ評
山本精一さんのライヴに行って来た。約2年ぶり。間違いなく、奇天烈で、間違いなく、天才。わたしもわたしを取り戻すことができた。蟻蛾十御座今巣。
エレキギターのソロ、弾き語り。関西に居ることの恵みを感じる音楽体験だった。ベアーズも久しぶりだった。道中、色んなことを思い出していた。近づいてくると、ここに黒人が経営してたかっこいい古着屋あったなあ、とか、羅針盤7Daysはムキになり全日行ってたなあー若かったあの頃、住んでた外国から逃げるように戻って一番最初に行かなあかんとおもった場所、...もしかしたら、消えて無くなってるかもしれん。到着するまで不安になって来た。
コロナ禍の前と後(まだ終わってないから正しくは中かな)、音楽家も観客も大きく変わっている。でもわたしたちはさほど変わってなくて、わたしたちを取り巻いている容れ物や環境が変わっているだけなのかもしれない、ともおもう。
あるいは、空間ではなく、2年という時間が、わたしやわたしの耳を変えたのかもしれない。からだはこころと連動しているから、内奥から違ったような感覚で、音の受容の仕方が変わるのかもしれない。成長したのか、老化したのか。
コロナ禍に突入の頃や、ライブハウスが始動しはじめた頃、勇気を出して予約するも、当日に咳が出ると仕方なくライヴに行くのを諦めた。行こうと決心して予約するだけでも、大きな勇気が必要。府県をまたぐこと、行き先の大阪は感染者数が多かったし、特攻隊にでも行くかのような心持だった。
覚悟、が、変わったのか。ありがたみ、も、増した。それは、いいことだろう。歌う人(あなた)はグレーのマスクをしていて、聴く人(わたし)も二重のマスクをしている。鼻も出したらあかんから、帽子(あなたもわたしも)を被っていると、顔で出ている場所がほぼ目だけになる。
じぶんがどんどん小さくなっていき、ギタリストの指がテレポートを誘っているような感覚になる。音がものすごい重い、前からそうやったんか、変化したのか、このライヴがそういうスタイルか。わからん。
音の質量が増して、そこにスピードが加わると、なんだか眩しくて目が開けていられなくなる。光を放っているのか。見えない光、感じる、いのちやたましい、のような。その光量にたびたび圧倒されそうになる。
でも、その出ている目(空間に居る者全員の)から、ものすごい集中力と熱が放出され吸収され、交換、循環され、空間に漂い舞っている。衣替えのタイミングを失って夏物を重ね着しているわたしでも、あたたかくなってきて、だんだん、熱いくらいになると、ああ、音にまもられている...!そして、安堵の感覚になった。
エネルギーセッションや滝行を受けに来たような。それでこのチケット代やから、ヒーリングとしては出血大サービスやね。ヒーラーって、違った、音楽家ってすごいな、とシンプルにおもう。
からだは試されているが、こころは受け入れていく。あんがい慣れることのできる生き物。じぶんで選ぶにしろ、入れられるにしろ、密閉の空間と時間から脱するとき、その結果、終わり次第なのだ、こころとからだの感覚がすべて。
昔のフォーク歌手のオマージュみたいな、坂道の曲がよかったなあ、とか、何も細かいことは覚えていないけれど、強烈なエネルギーの循環を、こころもからだも知っている。誰にも、何にも、変えられないものが確かにある。
そういえば、何度もライヴ中に笑ってしまった。シリアスとコミカルの入り混じり具合が最高におかしくて。「あなたのレイコンの似顔絵を描く」という歌詞が聞こえてきて、霊魂なんだろうか、とおもうが、不勉強で判然としなかった。
鈍ったのか、いや、研ぎ澄まされたのだ。からだは馴らされても、こころは屈服しない。変わらない、人の魂、と、音の力。
後記:山本精一さんのライヴのレヴューを書こうとおもって書けたことも久しぶりです。
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