オフコースの音楽
SNSで立て続けに、「疲れているときはバンド演奏を聞けない」という話を読んだ。一人は「普段は好きなバンドでも、疲れているときは聞く気になれない」ということで、もうひとりは、アイルランドのフィドラーが、家で安らぐときはソロやデュオを聞く、バンドミュージックを聴くにはエネルギーがいる、と言っていた、という話だ。
私は大編成の音楽が必ずしも嫌いではないし、アイルランド音楽で言えば例えばルナサも大好きなのだが、大雑把に言えば一人二人三人くらいの編成の、個人の音がよくわかる音楽が好きだ。さらに極めて個人的な嗜好で言えば、完全なソロ演奏よりも、伴奏がある音楽をどちらかというと好んでよく聞いているのは、まあそれはそれでそういう趣味なのだと思う。トラッドごりごりよりも少しコンテンポラリー寄り、あまりモダンになると嫌、というのが私の好きな位置なのだと思っている。
ま、そりゃあ疲れているときは静かな音楽だろ、当然だ、とも思うけど、街なかやテレビラジオから流れてくる音楽は煩いのが多い。みんなで盛り上がるための音楽とか、そういうのは自分とは別世界のものに思える。
それで、自分が安らいで聞ける音楽ってどれだ、と思ったときに、真っ先に出てくるのは、オフコースだ。詳しい人は、あ、2人時代のオフコース、と思うかもしれないが、私の場合、どちらかというと、5人時代のオフコースだ。
オフコースを聞いて安らぐ、といえば、とり・みきさんの漫画に出てくるピアニストの山下洋輔氏である。
https://twitter.com/videobird/status/1694759068299317357
会場をめちゃくちゃにするほどの破壊的な演奏をしたあと、家(ホテル?)に帰ってくつろいで聞くのは、あのタモリが軟弱と切り捨て、日本中が凍りつくんじゃないかと思うようなテレフォンショッキングを出現させたことでも話題となった小田和正のいたオフコースである。山下氏は、聞いてみてその音楽性の高さに感心した、という話がある。
「音楽性の高さ」というのはとても曖昧な言葉だが、どういうところにそう感じたのだろう。また、オフコースは「さよなら」のヒットが出るまで、業界あるいはプロミュージシャンの間では評価が高かった、が売れなかった、という話がある。それは具体的にどういう評価だったか。
例えば、「オフコースは難しいコードをいっぱい使う」と、ギター弾き語りのミュージシャンが言う。オフコースの魅力は、複雑で美しく正確なコーラスだとも言う。それはどちらも、音楽の表面をみればその通りだろう。じゃあ複雑で緻密なものを作ればいい音楽なのか。そんなわけないことは誰でもわかる。正直、そんな音楽は私は好きではない。
じゃあオフコースの魅力は何か。何人かの人が語っていることは、音数が少なく、余白が多いにも関わらず、濃密な気配があるということだ。例えば、5人の時代のアルバムの最初の曲である「あなたのすべて」「時に愛は」「愛の中へ」などが例にあがる。楽器はベース、ドラム、キーボード、エレクトリックギター。ギターや歌が旋律を取るときはそれが前面にでるが、それを支える伴奏はどちらかと言えば控えめで、しかし明確な意図をもっているかのように存在している。音楽的に正確な言い方であるか自信はないのだが、あからさまな複雑さ、難解さを感じさせない。これはつまり、「難しいコード」「複雑なコーラス」を目的としているのではなく、作者の思ういい音楽を作るために必要なものを組み合わせた結果であり、その過程で音を吟味し、いらないものを極力削ぎ落としたものであるということだろう。音楽性が高いと感じる、というのは、そういうことなのだと推測する。
オフコースの「時に愛は」を初めて聞いたのはおそらく中学生の頃で、まだギターも始めていないし、伴奏とはどういうものかも全く知らなかったが、イントロでギターの旋律以外にどういう音が鳴っているのかを聞いて、こんなに音数が少ないのか、それでこんなに存在感を感じるのか、と驚いた覚えがある。ドラムはゆったりした8ビート、ギター・キーボードのコードとベースは1拍目と4拍目だけ。それとストリングス的なシンセサイザー。音楽の存在感と同時に感じる静寂さ。静寂さのなかに浮かび上がる歌声。よくわかっていないけど、こういうのはおそらくミキシングやマスタリングの技術の効果もあるのだろう。
主旋律があって、伴奏とはどういうものか、というのを初めて考えたのは、おそらく小学生の頃だと思う。音楽の時間に生徒が歌う際、先生はピアノで伴奏を弾くが、多くの場合、主旋律も一緒に弾いていたのだと思う。そのときは、その旋律に合わせて歌うだけで、伴奏というものは意識的には聞いていなかったのだろう。あるとき、先生は主旋律を弾かずに、この伴奏に合わせて歌って、と言ったことがあった。それはおそらく、伴奏のコードだけ弾いたのだろう。自分も含め、多くの生徒は迷子になってしまい、上手く歌えなかった。そのときに、あれ、伴奏というのは主旋律以外の音を出すのだな、そういうものなのか、と不思議に思ったことを覚えている。その後しばらくして、ギターでコードを鳴らして伴奏をする、ということを知り、なるほど、こういうことなんだな、と世界が広がった感触をもった。
コード譜を見ながら、オフコースの歌をぽろぽろ弾き語りを試みたことがある。書いてあるコードをじゃらんと鳴らし、主旋律を歌ったところで、「ん?なんか違うな」と感じる。自分が下手なのか、わかっていないのか、と思っていたが、それはそれでそうなのだけれど、そこで違和感を感じたことこそ、今にして正しいと思う。そんな単純なものではないのだ。多くの場合、旋律がコードの構成音ドンピシャではなかったりする。それに、ギターのコードの押さえ方なんて、コードの構成音をとりあえず出す工夫だけのもので、単純なコードならそれでいいが、本当はベース音があって、ハーモニーがあって、テンションがあったりするので、コードという便宜上単純化して作られた音のセットの中で、どの高さの音を出すのかということも配慮し、あるいはこの音は削除してもいい、というところまで考えないと、特にオフコースの歌では、美しい響きはでないのではないか、と想像している。
オフコースの音楽はその構成にとても吟味が重ねられているのだろう。特に、音を重ねること以上に、削ぎ落とすことにも力が入れられていると思う。どんな分野のことでもそうだろうが、ある意味、真逆のことを同居させようとしていて、その過程で何か核となるものの純度が上がっているように思うのだ。その結果が、聞き飽きない安心感をもたらしていると思うのである。