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追伸:僕も君の神様になりたい。
この際言ってしまおう、僕はかなり優しい人間だ。
親しい人が困っていたり助けを求めていたり、病んでいたりしようもんなら一目散に助けに行く主義である。いてもたってもいられない性分である。
(「親しい人」とわざわざ強調するように書いているのは親しくない人にまで気を使い過ぎて気が滅入った経験があることからくる自戒である。)
こういうと聞こえはいいが人のプライベートにズケズケと入っていく行為だし、この行為によって自分のメンタルが削られることもあるので正直これについては悪癖であるとすら思っている。
だがいっぽうで、この行動によってすこしでも親しい人が楽になるなら、それに勝る喜びもはない、なんてことを感じているので今日までの僕はなにがなんでも人を救おうとしてたびたび暴走じみた行動をしている。
そーなんだよな、暴走してて良くない。
ほんとにこういう用事になるとやみくもに突っ込んでいくところがあるのでそれで失敗したことも多々ある。
例えばこの文章を書いた前日なんかは最奥で「君を救いたいんだ。だから病むなら俺の前で病め」なんて抜かしている。うーん、カッコいい。イケメンの言動だ。いったい何食べたらそんなこっぱずかしい表現が出てくるんだ。
まあとにかく、僕ってのはそういう性格を持った人間である。
僕は暗い人間だから、周りにも影のある人間が集まることが多かった。
誰かが僕を求めてくれることはとてもありがたいことで、生きる意味の大部分を担う物であった。
自分を求めてくれる人というのはリアルにはとても少なくて、だからみんなが僕のことを好いてくれる、というのはそのまま心の支えになった。
明確に、強く、僕の事を求めてくれる人というのは僕にとって本当に貴重でありがたい存在だった。
だから、そういう人たちのことは、全力で救いたかった。
君は優しい奴だった。
君は自分と世界に絶望していた。
君は死にたがっていた。
僕はできる限り君に寄り添った。
すこしでも君を楽にしてあげたかった。
たくさん話を聞いた。
いっぱいお話をした。
僕が当然だと思う道理を、君がすこしでも楽に生きられるような考え方を、伝えられるだけ伝えた。
生きる理由を一緒に作ろうとした。
でも、君の絶望は深かった。
君は、自分に生きている価値はないと、僕にも迷惑をかけたくないと言って、もう生きていたくないと言って、
ODをして死のうとした。
でも結局、君は病院で目を覚ました。
臨死体験が見事にトラウマになった君は友人たちの言葉も合わせて、ようやく生きることを選んでくれた。
その時僕がどれだけ安堵したことか。
そう、安堵した。
もちろん君が生きることを選択してくれたこと自体への安堵は大きかった。
でも一方で、もし君が本当に死んでしまっていたら、僕が受けるダメージが計り知れなかったであろうこと、その事態を避けられたことに対する安堵もあった。
結局僕は、自分の力では、君を救えなかった。救えなかったんだ。
あまりに僕は無力だった。
人を救うという行為の恐ろしさ。救えなかったとき自分にかかる負担、自責の感情、無力感、絶望感。なにも知らないまま人の精神領域に踏み込んでいたことが、ひどく恐ろしいことに感じられた。
ひとつ気が付いたことがある。
これまで僕が救おうとしてきた人はみんな、「救われたい」と思っていた。
「生きたい」、「幸せになりたい」、そう思っている人たちだった。
君は違っていた。「幸せになる権利もない」それが君の思いだった。
救われようとしない人間を救うことは、極めて難しいか、あるいはできない。
それが僕の結論だった。
カンザキさんのことを想わずにはいられなかった。
カンザキイオリは命に嫌われている。を投稿した。
その2か月後にカンザキは君の神様になりたい。を投稿した。
命に嫌われている。は「生きろ。」の曲だ。
君の神様になりたい。は「僕は無力だ。」の曲だ。
その2ヶ月の間になにがあったのか。
カンザキさんが何を想って君の神様になりたい。を書いたのか、今まで何もわかっていなかったことに気が付いた。
ようやく僕は自身のAT1選のことを少しだけ理解したように思った。
おそらく、カンザキさんも救えなかったのだろう。
エゴサをしたのか、あるいは動画のコメントに書かれていたのか、カンザキさんは自分が救えなかった人間を見つけてしまったのだろう。
「そんなことを言って本心は欲しかったのは共感だけ」
僕も一緒だ。僕も自分の満足のために人を救っている。
「こんな歌で君のジュグジュグ腐った傷跡が埋まるもんか」
僕も一緒だ。埋められなかった。
「君を抱きしめたって叫んだってなにも現実なんて変わるもんか」
僕も一緒だ。寄り添うことしかできなかった。
「欲しかったのは共感だけ。でも君も救いたかった」
僕も一緒だ。君を救いたい気持ちに嘘なんてない。
「『あなたに救われました』と、『生きたいと思いましたと』」
「ああ、そうかい。変わったのは自分のおかげだろ。」
「よかったな。」
ああ、ああ、ああ、、、
カンザキイオリ、あなたは、
「僕は無力だ。」
カンザキさんは今日も人を救っている。
今日もカンザキさんには救えない人がいる。
カンザキさんはとてつもなく重いものを抱えて、今日まで生きてきたんだ。
だからやっぱり僕は、カンザキさんに伝えなくちゃいけない。
きっと僕が変わったのも、自分のおかげだ。
でも、そのきっかけは、あなただ。カンザキさんだ。
それは、間違いない。それは確かだ。
間違いなく、僕は、カンザキイオリに救われたんだ。
そう、伝えなくちゃいけない。
そう思った。
僕は、親しい人が困っていたり助けを求めていたり、病んでいたりしようもんなら一目散に助けに行く主義の持ち主だ。いてもたってもいられない性分の持ち主だ。
カンザキさんだって例外じゃない。(親しいと言えるかはさておき。)
僕はそうやって生きるんだ。僕は人のために生きるんだ。
僕を救ってくれる人たちと全力で支え合って、生きていくんだ。
カンザキさん。11月23日、紀伊国屋新宿本店へ、あなたに会いに行きます。
伝えたいこと、いっぱいいっぱいあります。
楽しみにしていてください。
よろしくお願いいたします。
さあ、カンザキさんへのお手紙、書かないと。