高IQとQOL、「環境ガチャ」など
現在48歳、言語性120の運動苦手(動作性100)、発達障害当事者(ASD>>ADHD)二次障害の「双極性障害」が酷い。大腸がんサバイバ(切除済、再発なしだが後遺症で普段は寝たきり)。現・在宅ワーカー。元SE。
はじめに
近年、親ガチャ、環境ガチャ、など、あまり好きな表現じゃないけど「生まれで人生のほとんどが決まるんじゃないか」って話があって、日本国民全体が諦めムードで元気がないので、それにまつわる話を。
また、私の「総合IQ」はおよそ115(WAISをニ度受けた)なんだけど、「高いでしょ」という自慢の意味は全くなく、むしろ環境のおかげで廃人ですよ、こんなに苦しいですよ、どうなってんの?という愚痴メインです。
なんかnote界隈や、一部インフルエンサーなどの影響か、IQについて世間の興味が高まっているのもあるのだが「高ければいいってもんじゃない」という当事者目線の話です。便宜上「高IQ」と書いたけど130とか東大・京大レベルの人以下なので、厳密には「高め」というだけですが、人口上位1割くらいらしいです。
いわゆる「底辺」出身の苦悩
これを書くキッカケとなったのが、まず自分の不遇さへの理不尽な苦痛・不快感・怒り、で、いま躁状態で絶不調なのでこれまで思ってたことを吐出したかったからだ。
知る限り、IQってのは「脳の器質的性能」だと思うので、ほとんど遺伝で決まると私は思っている。chatGPTちゃんも「どれだけ努力しても、遺伝的な才能を持つ人と同じレベルに達するのは非常に難しいことです」と言っていた。後天的に知性を伸ばす環境を与えることで多少は伸ばせるが、私が大谷選手に太刀打ちできる「わけがない」のと同じで、限界があるということだ。
例えば私は160cmしか無いんだが、頑張ってもメジャーリーガーになれるわけがない。凄まじい練習でホームランを打てるようにはなるかもしれんが、体がデカいやつほど飛距離は「絶対に」伸ばせない。物理学的に当たり前だ。話を戻そう。
私の親族に大卒者が「ひとりも居ない」ついでに言うと、親戚の結婚式や葬儀で恥ずかしくなるんだが、父母どちらの家系も全員小さい。まじで。ウチの親族だけ異種族みたい。
…ともかく、そんな素晴らしく恵まれない家系だが、なぜか私だけIQが高い。ちなみに父母は中卒だ。経済的理由、とのことだが、昭和中期の平均からしても、彼ら世代で中卒はマイナーな方だ。考えて結婚しろよ、という話である。
ただ、話した印象、両親どちらも発達障害の傾向が明らかで、知能検査は受けていないのと、私のように「教育を受けたわけではない」ため、もしかするといわゆる「地頭」は悪くないかもしれない。IQはほとんど遺伝なので私だけ突出するのは変だ。
家柄の差
私はアスペルガー症候群の当事者なので、とくに学生時代など、自他の区別が曖昧だった。自我がないという意味でなく「俺ができることは誰でもできる」という思い込みがあったのだ。後に、生きづらさで苦悩し、近年になって発達障害とか知能の概念が啓蒙されて、ようやく自分のほうが特殊だと分かってきた。
まず小学校では、教師の説明を見聞きしてその場で全部理解し、頭に入った。理解しているので問題とかは絶対に解ける。基本的に満点だった。理に適ったことを言ってて、「そういう理屈なのね」って感じで、算数にせよルールに従えばそうなるので、できて当たり前であった。が、他の子はできないようだった。
よって、小学校「までは」予習復習が必要なかった。授業をきちんと聞いて、小学校のペースなら私の頭にはリアルタイムで入力され、記憶されるからだ。満点取れないときは、設問が悪い(日本語が変な算数問題とか)や、「自分の筆算メモが汚くて誤読(高知能あるある)」とかだった。
小学校では「理屈がわからない」ことはほぼ無く、あったとしても先生に聞いて納得できたら分かっていたと思う。なお一度記憶したら忘れないので、「正確にインプットさえすれば」ノーミスだ。参考まで、加齢でこれらは衰えている。
中学以降は、情報量が増えたことに加え、音楽というものに目覚めてしまい「ながら勉強」とかするうち、満点は取れなくなった。また、他の小学校からも優秀な「天才」が来て、そいつらは異次元に賢かったし、私も「秀才」止まりであった。
余談だが、むかしアメリカのハロウィンパーティで射殺されてしまった服部剛史くんはクラスメイトだったことがあり、彼に一度だけ数学で勝ったのがうれしかった。彼のご両親は塾経営者なので、つまり最初からエリートの血筋である。
親ガチャの話をすると、中卒の両親では、いくら私のIQが高めでも、日常から次元が違う。ある時期からもう、親より知性で優ってしまい、彼らが自分より知的に劣ると思って尊敬できなくなったのも不味かった。言動に論理性がないからだ。
服部くんと私を含む4名が、同じ中学校から、名古屋でトップの「旭丘高校」を受験した。当時、模試などで私は絶対に無理だと確信していたが、学力コンプの父親のせいで仕方なく(お前なら受かると盲信して言ってきたのでしぶしぶ)、リスクを負って記念受験した(2校受けられるんで、無理な学校を選ぶのは損)。
私「だけが」落第した。今でも馬鹿な父を恨んでいる。賢い人間なら分かると思うが、自分の頭の「ていど」など、だいたい把握できる。私以外の3名は天才レベルで、話や普段の態度から知性が私より上なのだ。受験面接でも服部くんは素晴らしい回答をしていた。なぜ彼が亡くなり私みたいなゴミが今も生きているのか。
特殊能力
話が前後するが、これまた昨今たまに話題の「ギフテッド」について。自分では当たり前だと思ってたことだが、よく考えると高IQゆえかな?と気付いたいくつか羅列してみる。
記憶力。まあ天才ほどではないが、私はデジタル記憶が強い。ある程度の桁の数値は見てしばらく記憶できる。これは常人より得意なほうらしい。「デジタル」と書いたのだが、文字や図形、映像はそこまで数値などに比べて得意ではない。
「努力する才能」とかいうが、私は天才レベルの知性がないので、不足分はものすごく努力で補ってきた。これを「才能」と呼ぶよりは、「自分がいろいろ欠けているから頑張ってる」と思っているが、たとえば私は礼儀を重視する。人の名前と顔を自然に覚えるのが苦手だ。
それで、たとえば高校に入ると、クラス写真を眺め、全員の顔とフルネームを何度も繰り返して脳にインプットした。才能じゃなくて、きちんと呼べないと申し訳ないという私の親切な性格ゆえの努力である。先に書いたとおり、私は「一度きちんと覚えると絶対に忘れない」ので、クラスメイト全員のフルネームは頭に入っていた。繰り返すが「不得意だから頑張った」のである。
これが「すごい」かどうか不明だが、似たようなことを成人後もしている。今でも家のwifiの、英数字ランダムの十数桁のものは暗記している。天才じゃないので何度も入力して覚えただけだ。最近はPCに頼ってしまい劣化したが、一時期は持ってる銀行口座やクレカも全部暗記してたし、大学までは友人の電話番号は全員暗記していた。スマホやPCに頼ると阿呆になると思う。
一度しか発動した記憶がないが、小学校であるゲーム攻略本のマップを見たあと、実際プレイしたところ、不思議とアイテムの出る位置が全部わかった。理由はさっき見たマップを「写真記憶」していたからだ。子供なので自分で不思議だった。
後年、30前に米国留学し、ハリウッドに住んでたんだが、帰国してからもしばらくは「脳内Googleマップ」みたいなことができた。つまり歩いた範囲なら動画で街を歩き回ることができた。解像度までは不明だが、自分が見た部分はそれなりに「その場に居る感じ」にクッキリ再生できた。この歳では無理だ。
ほかには、現代語を借りるなら「脳内ボカロ」という遊びができた。そんな概念の無い時代だが、あるバンドのボーカリストを、別のボーカリストにすげ変えて、その声で歌わせるというものだ(脳内)。これは仕組がわからないし、どの歌手でも自在というほどではない。メタルの似た感じの声の人同士ならできた気がする。
これら能力は自分では自然なものだったし、人に話す機会もなくて、こうしてエッセイにすると不思議だったなあと思うたぐいのものだ。言わないだけで、なにかしらできる人も居られるかもしれない。
なお「共感覚」というのは私はあまり無いようだが、ピアノを習わされた結果として、相対音感(絶対音感というものは存在自体が怪しい)はある。ので、楽曲はドレミのスケールで聴こえる。いまエレキギターも弾くんだが、キーがズレていたとしても、相対的にドレミの音階で「ミーミレドシー」とか考えながら演奏することが多い(速弾きなど追いつかないときは手が先に動く)
あ、あとバンドやってて気付いたけど「音に対する記憶力」も平均よりは良いほうみたいだ。自分では当たり前かと思ってたが、聴いたメロディを口や楽器で再現できる(和音や複雑すぎたり、長すぎるのは無理だが、フレーズ程度なら)また、十年以上やってなかった曲を久しぶりにギターで演奏しても、曲そのものをしっかり覚えている。(バンド仲間でもブランクあると曲を忘れてたりするらしい)
能力、というほどでないが、前職はSEだった。私は「書籍とは目次から最後まで読むもの」と思い込んでおり(普通の人が飛ばすことを知らなかった)たとえばC言語入門を入社時にもらった。目次から読み、サンプルプログラムを入力し「内容を完全に理解していた」ので、本一冊まるっと頭に入れて言語を使っていた。
同様に、ファミコンのマニュアルは絶対に全て読む。やる前に読むこと自体が楽しくて、たぶん大勢があまり使わない「便利だがニッチな機能」も活用していた。家電の取説等も同様、書いてあることは全部見て、レア機能も使った。ただ、これらは加齢や、Web出現以降、世に情報が増えすぎて、できなくなってきた。
IQも学歴も壊れたら無意味
「自分ができたこと」を羅列するのは案外に楽しく、「いい時代もあったんだなあ」とか「俺って努力家だなあ」としみじみ思った。悪く取らないで頂きたいんだが、実際私はすごく丁寧な部分がある。というのは、歳をとり、社会を経験するほど、他の方々が(私や他の発達障害者ほどには)丁寧「すぎない」ということを痛感したからだ。
職場などで気づいたけど、SE(PG)も、仕事が丁寧すぎるとあまり良い評価を受けない。職種によるが、他の仕事でも「適度に手抜きしてそれなりに速く」仕上げないと間に合わないところがある。あるとき、私より明らかに不勉強な同僚に「獅子さんのプログラムは複雑すぎて難しいし時間がかかる」というんで頭にきて「それって将来の変更に対応できない雑さで速く書けばいいんですね」と答え、実際そうした。(同僚は例えば似た画面をコピペし、画面のひとつに変更があれば何十行も書き直すが、私は1行だけ直せば全体が一気に直るような構造にする。長期的に見たら安全で速い。ただ、その設計に時間がかかる)
これは私の「生きづらさ」で、曲解して気を悪くさせたくないが、私は人類の少数1割の知能なので、他の9割の発想が「非論理的で非効率的」に思えることが多い。実際、社会に出ると特にITなんて日本全体がスキル低いし遅れている。
そんなわけで、どの会社に居ても対等に話せるスキルの方はちょうど1割くらい、他の方は私たちから見たら非効率的に仕事していてミスとかも多い。「そのことは」異常なストレスになる。(そんなこと言うなら全体にレベル高い企業に入ればよかったので、ここは私の落度でもあるが、就活に際しても、私を導いてくれる人間が存在しなかった。例えば親や親戚に大卒だったりきちんとしたサラリーマンがいれば別だが、身内同士の自営業者や現場労働者しか居ない。その仕事が悪いって意味じゃなくて、道を示してくれる知識がある人が居ない)
躁病でかなり調子が悪いので、普段以上に冗長な文章になった。
IQとQOL
これも近年、なにかの記事でよく見かけるのだが「IQが高いほど悲観的(早死に?)」ということが書いてある。まあ理由として「周りが劣ってみえたり、イライラしやすい」「現実主義すぎて(私の場合)やる前から結果が分かって挑戦する気が出ない」といった感じだ。
つまり、自分の学力では旭丘高校はとうてい無理だから受けても無駄。これはまだ「本当の事実」だからまだしも、たとえば、私の父は、発明みたいな発想が豊かだ。私は現実主義すぎて「自分が思いつくようなことは、世の賢い人が既に発明している」と知ってるので考えすらしない。しかし父親は無知ゆえに自由になにか思いつく。
一度はっとさせられたのは「盲導犬というのは少し犬が可哀想だから、IT技術でそれに代わるものはできんもんかね」と言われたことだ。私は技術者なので、それを考える前に「コストがこうで、そもそも世の中、カネにならんことに人は動かないし、盲者のために補助金を出すほど日本は福祉国家じゃないし」とか「やらない(現実的)理由」が出てしまう。その時も父親に「あんたが思いつく程度のことは既に研究されてるし、実現する手段(特にお金)がまず無い」と一蹴した。
脱線ばかりだが、発明に限らず、人間関係にせよ、将来のビジョン(いわゆる「夢」)にせよ、若い頃から悪い意味で達観(諦め)していて夢も希望もありゃしなかった。
これで私は成人・就職以降にインディバンド活動をし、しまいにはプロ目指して音楽留学したのだが、それ以前も「自分にそういう才能はない」と知っていたので、当初はやる前から諦めていた。結果的に、「やってみてだめだった」けれど、感想としてはやっただけ良かった。
何が言いたいかというと、知能が高い(天才ではなく秀才程度)だけで、頭が固く柔軟性がない。あと書き忘れていたが、不得意分野として「運動能力が平均より低い」ので、たぶんスポーツ得意な人々から見たら、ちょうど私が「世間の人々はなんて非効率的・非論理的でこんなこともできない、知らないのか」って思う感じに、「獅子さんはキャッチボールすらできないのか」「ボールも打てないのか」「ダンスもできないのか」ってなる。
異常に長くなってしまったが、本稿で言いたいことにようやくたどり着く。
世間でちょっと高IQブーム?というか、それを高めようとか、高くなるには、とか、高いことへの憧れみたいなものがある気がしている。けど、「高ければいいってもんじゃない」ということだ。
まず少なくとも、スポーツマンでもてる人は知ってるが「高知能」だけでもてる人は知らない。高知能でも外見がいいとか、ユーモアがあるとか「肯定的に取れる要素」がある場合だけ好かれる。また、高知能を活かしていない当事者としては、正直(動物の仕組を見れば明白だが)平均知能で体力があるほうが生物として優れている。
もし仮に、私が「私を虐待しない、人格が幼稚でない両親の元に育った」のなら、彼らが中卒だろうがたぶんこんなふうでなかったろう。(※ 断っておくが中卒であることへの強い差別心があるわけでなく、両親が憎いだけで、事情があって中卒な方々についての悪意は皆無だ。たまたま憎悪している相手が学歴もなかったので、私の与えられた才能を活かせなかったことについて怒っている。)
仮に私がもっと軽い性格で、勉強が好きでなく平均知能で、中卒で現場仕事をしていたとして、親も中卒で、尊敬できる性格だったのなら全く「なに卒」だろうがどうでもいい。「自分と比較して親に知性を感じられない」ということが主題です。
また、アスペルガーにも種類があるそうで、私はもともとは父親と同じ「積極奇異型」だった。いわゆるガチで空気が読めないやつ。ただ私は「素の自分だと人に嫌われる」と経験し、それこそ根は親切で思いやりがあるので(自分で言うなって話だがアスペルガー特性上、説明のために有り体に書いてる、会ってもらえば本当だと分かる)人に不快感を与えるのが嫌で空気を読むように「学習し、自然な自分でいることを避ける」という無理をしている。すごく疲れる。
で、あるサイトによると、積極奇異型をこじらすと「尊大型」になるそうだ。尊大型とは「自分が有能であると思い込み、他者を見下す」というもので、まさに俺じゃねーか。と見てショックだった。これは自衛のために仕方なくそうしているが、そのことが「正しい」なんて思っていない。そんな自分は大嫌いだ。
文面を見ていただいて分かるとおり、アスペルガーは頭が固く、たいてい言語性の知能が高めで、話が長い。
まとめサイトとかで「頭がいいとは」とちょくちょく話題にされ、中には「勉強だけできる馬鹿」と揶揄され頭にくることがある。これについては、一理あるとも思うが、じゃあお前は素人から勉強して水没バイクを動かせるレベルまで直せるのか?俺はできるぞ。独学だけで英語話せるようになれるか?俺はやったぞ。クラスメイト全員フルネーム暗記したのか?ギターを俺ほど弾けるのか。
という具合に、正直なところ、私は「ある分野においては」やはり普通の知能の方よりは妙に器用だったり得意な分野がある。(むろん苦手分野も多いし、知能はさておき私よりなにかに秀でた人などいくらでもいる)
ストレスを溜めすぎて文章も長引きすぎた。
本当に言いたかったことを短くまとめると
「自分は、世間で一種、憧れ?とか羨望?の対象になってそうな、IQ高めの部類で、それは、使いようによっては良い才能なのだが、環境によって全く活かしきれず、今では処方薬依存・賭博依存の廃人なので、ちっとも幸せでない」
ということだ。ぜんぜん短くまとまらない。誰かや何かのせいにすべきでも無いんだろうけど、本当に、もし若い頃に私の精神を安心させてくれたり、ITではなく自然に長所を活かせるような環境だったなら、こんな卑屈で捻くれた廃人になっていなかったのではないか。というのが悔しくてならない。
なるべく早く死なせてもらいたいもんだ。なぜあの人格・能力にすぐれた服部君が少年期に死なねばならず、私のようなろくでなしは生きながらえるのか。理不尽に対し怒りが沸き起こるのだ。