獅子舞生息可能性都市 秋田編① 挨拶をしてくれる町・新屋から活動は始まった
秋田県といえば、何を思い浮かべるだろうか?お米、ナマハゲ、秋田犬..。魅力はたくさんある一方で、消滅可能性都市として人口減少が急速に進むことでも知られている。その中で秋田市のようにコンパクトシティが進む地域もあれば、大潟村のように農業によって所得が安定し若者が定着する町もある。
秋田の暮らしについてどのように考えていくべきか?獅子舞を地域の素材を使って創作し実際に舞い歩きながら、「この土地に獅子舞は生息できるか」という視点から迫っていきたい。
2022年4月22日~5月1日の日程で秋田県秋田市に滞在。今回の滞在は秋田発の獅子舞ユニット「獅子の歯ブラシ」の活動を開始するにあたり、コンセプトなどを再確認する時間になった。また、秋田市周辺で様々な地域にゲリラ獅子を実施!25日~30日は秋田公立美術大学の展示スペース「HUTTE」にて「デバヤシ」という展示も開催できた。その他対談など大充実の滞在となったので、その様子を振り返りたい。
▼そもそも「獅子舞生息可能性都市」とは?という方はこちら。
▼前回秋田に滞在した2022年1月の様子はこちら。
①獅子舞ユニットの展示「デバヤシ」を開催
獅子舞ユニット「獅子の歯ブラシ」の活動は、2022年4月より本格的に開始!まずは関係者の皆さんに存在を広く知っていただきたいという想いから、展示を実施することになった。
4月25日から30日の日程で、秋田公立美術大学内の展示スペース「HUTTE 」にて、イントロダクション展「デバヤシ」を開催。学内関係者の方々に、「獅子舞生息可能性都市」のプロジェクトについて広く知っていただくことができた。
②ゲストを呼んで獅子舞を語る!シシトークを開催
4月26日には文化人類学者で、秋田公立美術大学准教授の石倉敏明先生とのシシトークも実現!石倉先生は芸術と民俗芸能の研究などをされており、獅子舞に関する論文や本などの執筆も行なっているとのこと。『野生めぐり: 列島神話の源流に触れる12の旅(2015年)』を拝読して以来、ぜひお会いしたいと感じていたので、とても貴重な機会をいただいた。
最も興味深かったお話の1つが、獅子舞生息可能性はジオ的な視点で地形や気候風土も加味していく必要もあるのではないかとのこと。ヘリの部分に信仰が生まれやすい盆地地形のお話などはぜひ獅子舞によって検証してみても面白そうだ。
③秋田市周辺にてゲリラ獅子の実施
また、期間中は秋田市内の様々な場所で獅子舞を実施!獅子頭と胴体は、前回、2022年1月の滞在時に製作したものをそのまま使った。今回は展示に使用したものではあるが、ゲリラ獅子を実施するときには「出張中」という形で、展示空間には獅子を不在にして舞い歩いた。
今回の記事では、このゲリラ獅子の様子をメインに時系列で振り返っていきたい。果たして秋田の獅子舞生息可能性はどのようであったのか?
<獅子舞がゲリラした場所>
2022年4月22-23日 秋田市新屋
4月26,27日 秋田公立美術大学
4月28日 秋田市中心市街地
4月29日 男鹿市寒風山、大潟村、五城目町
4月30日 秋田公立美術大学, 秋田市新屋
獅子が息づく町、新屋
2022年4月22日、秋田市の新屋駅に降り立った。今回の滞在は秋田公立美術大学の協力を得ながら、この町を拠点に活動する。駅を降りると、暖かい春の風が吹いていた。冬の秋田しか印象がなかった僕は、なんて暖かい季節になったのだろうと感激した。
道端には桜並木が広がっており、桜が足元に散らばっている。桜の並木路を歩いていた時に、道端の座っているおじさんが「こんにちは!」と挨拶をしてきた。道端の人に挨拶される経験も少ないので「あ、こんにちは」などとしどろもどろになって、挨拶をかろうじて返す。そして、「ここは獅子が住む町だ」と直感する。
他人からキャリーケースをひいたまれびとである自分が挨拶されるなんて、思ってもみなかった。他人に対して関心を持ち、ただ当たり前のように挨拶が返ってくる。こういう温かい社会に、獅子という生き物は生息するのだ。
獅子を被り軽く町並みを歩いてみると、低い一軒家が多くて、マンションやビルなどは存在しない。どこかで見たことのあるような特に珍しくもない建物たちなのだけれど、どこか空間的な余白も大きいように感じられた。
また、帯状公園という名前の公園が印象的だった。ここは一見、川にしか見えない。谷間状の溝に、多くの人は川を想像するだろう。しかし、僕はその近くまで来て、公園であることに驚いた。札幌や名古屋にある大通公園とも似て非なるものだ。商業が入り込んでいない分、帯状公園はどこか素朴に思えた。お昼時に通ったもんだから、シートをひいてお弁当を頬張る地元民の姿も見られた。
自己紹介動画を撮る
4月22日~23日は自己紹介動画も撮影することにした。自己紹介動画は2パターンあった。1つは滞在拠点であるアラヤイチノという家の庭で100年後の獅子舞が生息する未来を1分間の動画で見せるというもの。もう1つはアラヤイチノの部屋の中で、三人が三者三様の舞いをするというものだった。
前者は物語の構成を考えてから挑む点で演劇のようだった。工藤さんが桶を木で叩いて音を奏で、船山さんが建物から顔を覗かせたり箒で土間を掃いたり箒で建物のホコリを取ったりして音を奏でた。最初は獅子を無視する形で動画を構成しておりそれがシュールで面白かったのだが、次第に獅子が寂しいような気がして、獅子が2人の頭を噛むように構成を変えた。そうしたらしっくりきた。
後者は一発撮りで獅子を舞い、メンバー3人の特徴を顕在化させるものとなった。工藤さんはゆっくりとしなやかに舞い、船山さんは不気味で予測不能な動きをした。僕は自分が相対的に荒々しく舞っていることをここで自覚した。また、工藤さんの獅子は身体的に体が硬い僕には真似できないと思ったが、船山さんの獅子は後日、少し真似できるような感覚があった。その話を工藤さんにしたら、「身体的な要因を超えて獅子の個性が出せるようになったら本物かもしれませんね」と興味深い答えが返ってきて、さらに獅子の動きに対する解像度を洗練させていく余地があると感じた。
海と砂浜と太陽に、体が硬直す
秋田市新屋に滞在して2日目。4月23日にいきなり衝撃的な体験はやってきた。空はどこまでも晴れていた。夕日が美しいだろうと考えた僕らは、車を繰り出して、新屋海岸へと向かった。雄物川沿いを走っていくうちに夕日はどんどん沈んでいく。真っ赤な太陽は僕らにその姿を捉えられまいとしてどんどん水平線に近づく。
車は太陽を追いかける。その果てに、車はずぼっと砂にはまり、僕らは車を降りる。今のうちだからと、海岸を舐め回すように見つめる。様々な漂着物がある中で、圧倒的に景観を奪うものは荒々しい木々だ。ただ僕らは立ち尽くし、広々とした海と太陽と荒れ果てた砂浜を唖然と見つめる。
思い出したように「せっかくだから獅子を舞っておきたいですね」などと、僕が提案する。獅子をかぶると、その鼻の穴の部分から太陽がかすかに覗ける。もうすぐ沈んじゃうという焦りから、体をバサバサと動かしてみる。そしたら、壮大な景観が動きを抑制してきた。「あれ、うまく舞うことができない」。そう思った瞬間に、今までの自分の獅子の動きは、ステレオタイプを決め込んでそれを演じているような獅子であったことを自覚した。どこか自分の頭で演じていたということかもしれない。
空間を舐め回すように、味わった。そうしたら、自分の獅子の動きは抑圧されざるを得なかった。「あれ、以前であれば、ゆっくり左右に反復横跳びのような動きをしてた。あと、天を突き上げるような動作をしていたよな。あるいはもっと遊ぶように駆け回っていたかもしれない」などと、過去の自分の動きが回想させられた。今までの自分は手持ち無沙汰になるのが怖くて、こういう動きを自然にしていたのではないかと思われた。
そこで、この壮大な景観を素直に感じるように思考を切り替えた。そうしたら、自然と体を振ることができなくなって、流木に腰を降ろした。ただ、夕日が沈むのを待った。夕日が沈んだ瞬間をただひたすら見届けたいということに関心が向いた。獅子の口の部分、あるいは鼻の部分からただひたすらに太陽を凝視した。太陽を覗きたいという欲が出てきたのだ。太陽から稲村という生身の人間は見えていない。こういう見えないものに自分を封じ込めている自分にも気づいたし、そういう状態で太陽を眺めることに対して快感を覚えてしまっている、ある種の愚かさも実感した。太陽が水平線に隠れた瞬間に、自分の体の内側から雷がドスンという音を立ててヘソの下に乗っかってきたような感覚があり、獅子を地面にへたれこませた。海岸の砂に体を少しはめ込んだような気持ちになって、膝に砂がついた。ああ、これが土地を感じることなんだと思って、新しい獅子との出会いに感激した。感じれば大地は応答してくれるのだ。
残照を眺めながら獅子舞ユニットのメンバーで、ジャケ写のような写真を撮った。三人の構図がうまくパズルのピースのようにはめ込まれた。そして、暗くなるまで、いろいろな構図を試して粘った。「これいいですね」「これは稲村さんだけ画像加工してはめ込んだみたいですね」。違和感と向き合いながら、ロケーションを味わった。鳥海山や風力発電施設を背景に盛り込んでみた。その後、日が暮れそうになって、砂にタイヤが埋もれた車のところまで戻った。靴には砂が入っていた。海水浴をした気分になった。砂をはらって車に乗り込んだ。夜は鍋パーティをした。いよいよ、獅子舞ユニットの活動が始まったという実感が湧いてきた。ステレオタイプを壊すことに成功した1日というわけで、個人的には重要な1日であった。
大学における劇場と龍脈の存在
4月25日に秋田公立美術大学で、獅子舞ユニットのイントロダクション展「デバヤシ」が始まった。30日までの展示期間中はやっぱり舞わずにはいられない。船山さんと工藤さんと、大学構内の獅子舞の舞場のようなものを探し始めた。大学構内という縛りを設けて、その中で舞うとしたらどこが良いのだろうか?信仰が息づく場所といえば、大学内の校門をまっすぐに進んだ劇場型の円形広場がまず思い浮かぶ。獅子が体を振りたくなる、見上げたくなる像もある。ここを中心に獅子の物語は進んでいくような気がした。
獅子舞の生息環境を測る上で、畏敬の対象を考えることがある。神を盛り立てる存在として、進化を遂げてきたスフィンクスに接続するかのごとく、獅子の5千年以上にわたる歴史が一瞬にしてそこに立ち現れてきたような気がした。実際に舞ってみると、遠目から獅子を見つめる学生たちも多く、食堂の窓から獅子を応援するかのように見つめてくれた。あるいは、横を颯爽と何事もなかったかのように通り過ぎる学生たちも多かった。
また、大学構内を探検していて思ったのが、やはり、狭くて入り組んだ廊下という魅力的な舞場も存在しているということだ。これはうねうねとした蛇や竜を思い起こさせるような空間で、獅子が生息することでいきなり曲がり角から顔を出してくる驚きの感覚を、学生たちに体験してもらえる。まさに不気味なゲリラ感が満載なのだ。
いきなり現れた獅子に学生たちは驚きを隠せない。口を手で覆い隠し、笑いや驚きをなかなかこらえることができない人もいた。そういうリアクションをしてくれる人に対しては決まって頭をパクパクパクと数回優しく噛む。眼やら鼻までも噛んでしまっているようで少し力を弱めたくなり、獅子はどうしても甘嚙み体質になる。この行為を温かく受け止めてくれる人は多かった。
そういう時に、「ありがとうございます」とお辞儀してその場を立ち去りたくなる。お辞儀をして腰を折り曲げる獅子というのもなかなか珍しいのではなかろうか。ゲリラ獅子を仕掛ける側の心理としては、自分が何か加害してしまっているのではないかという妄想を頭の片隅に入れながら、獅子を演じているからだ。
食堂で獅子として生まれ変わる
また、食堂でもゲリラ獅子をやった。食堂では恥じらいが先に立った。食堂という空間には席が敷き詰められており、そこに獅子が登場した瞬間、多くの人々の目線は一斉にこちら側に向かってくる。自分の恥じらいという個性を押しとどめて、獅子というある意味「都合の良い存在」によって、食堂に立ち向かう。自分の願望を具現化した存在だから、思い切った行動ができるのだ。
1度目のゲリラ獅子はとにかく恥じらいが優った。でも2回目は思い切って数人の頭を噛めた。自らの上に獅子という衣服を身にまとい、それをユニフォームのように着用することで、その役柄を演じる自分。獅子という生き物にスイッチが切り替わった瞬間だった。同時に頭を噛むということがなぜか達成の指標を表しているようで、どこか短絡的な考えが立ち現れてきた。頭を噛むことだけが獅子ではない。獅子はもっと想像力を育む想像上の生き物なのだ。どこまでも未知が続いていく。だから、探求したくなる存在なのだ。
そういう意思がどこか心の奥底に沈殿していて、なんかいたたまれなくなって獅子を食堂入り口でアルコール消毒した。アルコールを口の中に含み、ぐるぐると顎を回転させるように馴染ませる。どこか多様な予測不能な動きを発明していきたいという意思が現れてきた。
さて、秋田の獅子舞生息可能性を探る前半はここで終了!獅子舞生息可能性都市 秋田編②に続く。
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(執筆:稲村 行真)