歴史に学び、行動に活かした偉人 徳川家康
歴史に学び、行動に活かす
このテーマを考察するにあたって、ますは日本史上もっとも
歴史を学んで活用したと断言できる偉人の物語から始めたいと思う。
徳川家康。
『吾妻鏡』『貞観政要』『論語』『中庸』『史記』といった膨大な書物を愛読しする。天下を取った後は子孫に、「馬上にて天下を取り、文をもって天下を治める」と言い残し、1000部9800冊にも及ぶ書物を徳川宗家・御三家に贈与しました。
今川義元、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉といった直接関わった政敵・ライバル・上司からの屈辱・敗戦・服従といった経験をバネにさらに飛躍するのも凄いところ。
家康九死に一生といわれる三方ヶ原の戦い。文字通り命からがら逃げかえった家康。その時の屈辱を忘れないようにとあえてみっともない姿を描かせ(『顰像』(しかみぞう))自戒のために座右に置いたというのは有名ですね。
武田家にはさんざん苦しめられた家康ですが、武田家の凄さは取り入れたいと熱望。武田家を滅ぼした後、信長は武田の残党は根絶やしにしろと命令したのですが、家康はひそかに武田生き残りを保護。最終的には井伊直政に「井伊の赤備え」として徳川家臣団に引き入れました。
実質的には家臣扱いでさんざんこき使われ、優秀な後継ぎ(長男信康)を犠牲にする悲劇を味わいながらも同盟を維持した信長との関係。光秀の裏切り(本能寺の変)で家康も生涯最大の苦難(伊賀越え)を味わうことになりますがなんとか生き延びます。
直接対決(小牧長久手の戦い)には勝利したのに、その後の駆け引きで軍門に下る決断をさせられた秀吉との関係。家康封じ込めの秀吉の嫌がらせ(関東転封など)には苦労させられましたが、日本史上最大の人たらし秀吉との葛藤で身に付けた老獪な交渉術・政治手法が後の関ケ原の戦いの勝利、その後の徳川政権安泰・盤石へ大きな力になったのは間違いありません。
関ケ原の戦いの勝利で当代随一の勢力となり、大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼすことで抵抗勢力となりうる芽を完全に摘み取る。一介の一地方出身(三河・現在の愛知県東側)の小勢力にすぎなかった者が天下統一。それはもちろんとてつもない偉業ですが、本当に凄いところはその政治的安定のシステムを200年以上に渡って維持する仕組みを作ったこと。「パックストクガワーナ」と海外からも注目される江戸幕府永続のしかけ。その制度設計の種は家康が仕組んだもの。戦国時代を生き延びた男が乱世生き残りで得た知恵とその活用法とは?
その英知の数々は次回改めて考察します。
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