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今年の創作活動と来年の展望

 2024年が終わろうとしている。
 ほぼ毎年行っている1年の振り返りをしようと思う。


今年の活動

新刊『夕焼けとシオン』発行

 久しぶりに紙の本を発行した。
 2019年に活動を休止して以降なかなか思うように小説を書けないでいたのが、この作品の執筆を通してどこか吹っ切れたような気がしている。
 『夕焼けとシオン』は、私自身が妊娠、出産、乳児期の育児を繰り返していた中で温めてきた作品である。もともとは書きあがったものとは違った構成で、「回想パート」の一番大きな出来事とその前後だけで書いていくつもりだった。あの形で展開させようというアイディアが「降りて来た」のは、3月に伯母(母の姉)が亡くなったのがきっかけだった。通勤の道すがら「そうか、そういう角度から書いていくのもアリだな」とひらめいたのだった。

 「謂はぬ色」は私の一人サークルで、小説の執筆から表紙の作成、組版、入稿……全部私一人で行っている。久しぶりに組版の作業をしたが、なんだか間延びしてしまったな、というところと、表紙が地味だな、というところは反省点だと思っている。
 おそらくデザインに秀でた人のいるサークルや商業作家の方は、この点で躓くことは少ないだろう。「ハァこの辺が上手になるにはどうしたら良いんだろうな」とぼんやり思っている。

文学フリマ東京、出店

 久しぶりの新刊『夕焼けとシオン』を携えて、5月、11月に行われた文学フリマ東京に出店した。実に5年ぶりとなる出店だった。

 何人かの同人仲間が久しぶりの再会を喜んでくれ、『夕焼けとシオン』を買っていってくれた。その日のうちに「読みました!!」と報告しに戻ってくる猛者もいて、イベント自体とても楽しめた。

 それが5月。

 11月は新刊を出さなかったからか、弊サークルに訪れる方が5月より少なかった気がする。それでも、初めてお会いする方が本を手に取ってくださったり、私の本を全部持っているという猛者たち数名が、「挨拶だけでも」と訪ねてきてくれた。
 初めてのお客様には何故か『三大香木―梔子― 秘密の場所』が人気だった。表紙のパワーが違うからだろうか。発行当初からヤツは表紙の引きが強かった。あの梔子の花のイラストは私が描きました……もう一度描けと言われても描けないと思うけど。

 11月の文フリではイベント後の打ち上げにも参加した。初めてお話する方も多かったが、知り合いが増えたのは孤独に活動する私にとって嬉しいことだった。

細々と続いたnote日記

 noteでの日記投稿が、なんだかんだ続いている。「どうせ誰も見ちゃいなんだから好きにやりゃあいいんだよ」をモットーにしているからかもしれない。楽しみにしてくださっている方がいらっしゃったとしたら、その方々に対して大変失礼な話になるので申し訳ないのだが、それくらいの気持ちで書く方が変な力が入らず文章を書ける。もし読者を意識してしまっていたら、今頃日記は続いていないかもしれない。
 私にとっても、「この日は何があったっけか」と振り返ることのできるいい材料になっているし、当初の目的だった「書けなくなる」ことを避けるというのにも一役買っている気がする。note日記の投稿は、『夕焼けとシオン』を書き上げられた要因のひとつかもしれない。

来年に向けて

物語をまた書きたい

 今年に続き、来年も小説を書ければいいなと思う。「こんなのはどうだろう」といくつか案はあるが、今のところどれもプロットを組むには至っていない。
 私の小説は「哀しさ」や「嫌悪感」を書くことはあっても「怒り」の描写は少ない。しかし同人仲間の中には「君の活動は怒りが原動力なのか?」と思うくらいSNSでも作品でも怒っている方がいる。そこそこの人数いる。そういう方の作品はなんというか勢いがある、気がする。

 なんか新しいことをやってみたい気もするので、書けそうならネガティブな感情、特に「怒り」や「不満」を盛り込んだ作品を書いてみたい。

 とはいえ引き続き「愛とリアリズム」をアイデンティティとしてモノを書いていけたらとは思っている。その軸はブレないように。

「テレッテレー」に参加したい

 SNS(旧Twitter「X」)上で開催されるオンライン創作会「テレッテレー」。今年も初めの方は参加できたが、なんだかんだ参加できない会の方が多かった。参加できた回では「夕焼けとシオン」のプロット組みから初稿まで一気に終わらせようとしたが、初稿の完成には至らなかった。
 家族の都合があるのでどれだけ参加できるか分からないが、機会があれば「テレッテレー」に参加して、まとまった創作活動の時間を得られたらと思う。

イベントに参加したい

 もう既にいくつかイベントに申し込んでおり、都合がつけばサークル参加しようと思っている。
 参加費はまだ払っていない。子どもたちの世話を頼める人(夫)の予定が合わなければ参加できないからだ。転職先でもシフトの調整が効けばいいのだが。
 大きなイベントともなれば託児サービスもあるというのは知っている。ただ、(確認はしていないが)そういったサービスは子どもが当日熱を出したら使えないのと、現地近くまで子どもたちを連れて行くのが大変なのと、特に娘が人見知りして適応できない可能性が高いのと……。利用に適したご家庭もあるはずなので託児サービス自体には今後も頑張ってもらいたいが、うちでは今のところ採用しない方針だ。

 私がイベントの参加を休んでいた5年間で、イベントの様相が大きく変わった。もしかしたら文フリ東京に限ったことかもしれないが。本を頒布するには文章力だけではダメ、という風潮が以前より色濃くなってきたと感じる。表紙やお品書きのデザイン、カタログの文言、SNSでのマメな告知やフォロワー数……「マーケティング力」のようなものが問われているように思う。
 私は文学部卒でもなければ経営学部卒でもなく、デザインもカンでやっていて、その上、人付き合いには奥手ときている。かなり不利である。どれも勉強すれば良いじゃん、本腰入れてやれば良いじゃん、という話なのかもしれないが、ごちゃごちゃ手を出しているうちに、自分が本来何をしたかったのか見失ってしまいそうで怖い。何をどこまで頑張るかはまだ検討中だ。

note日記を続ける

 数日まとめてもいいし、遅れてもいい。タグは「#日記」だけでいい。SNSに更新報告のリンクを投稿してもいいししなくてもいい。徐々に緩くなっていったルールの中で、来年もnoteで日記を書くという活動を続けていきたい。来年はさらにルールが緩くなっていくかもしれないが、もう次は「書かない日(日付が飛び飛びになる状態)があってもいい」くらいしか思いつかず、しかしそれは避けたいなと思っている。

 振り返ると、今の私の主な創作活動はこの日記である。これを「イベントのマーケティングの面で活用できないか」と考えることがある。
 昔、私がまだイベントに一般参加しかしていなかった頃、「VOCALOIDならニコ動を、漫画ならpixivを、それぞれ日常的に観ていて好きになった投稿者のサークルに赴き作品を買っていた」ということをふと思い出した。その形を、今度は私がサークル側になって再現できないかと考えている。
 ただ、「この人のいつものやつ(SNS投稿、日記等)は楽しみだけど、イベントでいきなり小説を出されましても」というのはあると思う。そういった、受け取る側の事情もなんとなく察するところがあるので、もしかしたら日記の総集編みたいな本を作って出すかもしれない。
 エッセイはこれまで何冊か頒布してきたが、余っても廃棄してしまっている。読み返したときの羞恥心に耐えられなかったからだ。そんな私でも折に触れ読み返せているnote日記なら、これまでのエッセイで感じた羞恥心に苛まれることなく頒布し続けられるのではないかと期待している。
 ただ、この一連の発想で活動した末にエッセイを発行すると、絶対「エッセイだけ買う」っていう人が出てくるので、無理矢理短編をひとつ収録しようとも思っている。私の小説も読め、もとい、読んでください。
 あと、文フリで小説じゃない島に飛ばされるのが怖い(知人がほぼ小説の島にいる)ので、小説の島に存在し続けるためにも、小説は書いておきたい。

まとめ

 今年は新刊の発行にサークル活動復活と、久しぶりに独身の頃のような活動をすることができた。昨年の開始当初はどうなるかと不安だった日記も細々とだが続いている。
 来年もこうした活動を維持しながら、少しだけ今年よりも何か(本のデザインに関することでも人間関係を広げるでも何でもいい)に力を入れて、またひとつ前進していけたらと思っている。

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