『晩年感覚』終わったので、感想戦ですw
『晩年感覚』は、自分がまだ20代の終わりのころ、
大人の社会科見学気分で
S川急便で、毎日、
電話をとっては、
「荷物はいつ届くのか」「まだ来ない」
「お前じゃなくて上司と代われ」という
怒号の中で生活し、
家に帰ってのんびりして酔っぱらうと
部屋の扉やふすまを開けて
仕事場の続きのように
見つからない荷物を探しては
「荷物がない、荷物がない」と
言っていた40年くらい前に書きました。
自分を救うのはもちろんですが、
人類全体を死から救おうと思って書いた批評です。
死さえクリアできれば、人間は
朗らかに、思いやり深く
生きていけると思っていたのです。
でも、それはできなかったです。
人類の二千年の屈辱を晴らそうとしましたが
できなかったです。
問題は、「わたし」の消し方です。
現在のわたしは、
「死はない、あるのは死体だけだ」とか
「わたしは死なない、
わたしは詩ぬのだ」といっていますし、
「わたし」は
「わたしたち」になることで
「わたし」を消せると論理的には思いますが
それが、
恥ずかしくなく、胸を張っていえるまでには
まだしばらくかかると思います。
原文の最後は、
高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』を論じて
終わろうとしていましたが、
今回読み返してみたら
まったく自分の読みが浅かったので
抹消しました。
最後の「篝火」の部分は、
最近書いたもので
当時は、
生きるということに値しない自分の抹消としての死が
最も切実なものであったにもかかわらず、
現在は
生理的身体がこらえうる限界としての死が
遠くからせまってきているように感じます。
しかし、なんと、ことここにいたって
荒川修作の
『私は死なないことに決めたんだ』という
この言葉に、感動しています。
生理的身体の衰えるままに、
言われるがままに、衰えていいのでしょうか。
わたしは、いやですw
これが、荒川修作の心意気か!?
ということで、
わたしは詩ぬことさえも拒否するかもしれません(笑。