寺山修司論『液体と規則性』
『12 樫、刺青、皮膚』
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(寺山修司から谷川俊太郎へ)
谷川さん、
丁寧な葬式を
最後までどうもありがとうございました。
谷川さんにとって僕はやはり
風薫る五月の青年だったということなんですね。
「死へと向かって成熟してゆくことを
終始拒否しつづけてきた彼にとって、
その瞬間は<私>の消滅の瞬間ではなくて、
<私>との和解の瞬間、
むしろ誕生の瞬間であるかのように」
思っていただいた僕ですが、
成長というのは、
歴史よりも地理を好む僕にとっては、
仲間を募り続けるということだったのです。
*
ガリ版印刷で学校新聞を
一人で作っていた少年だったころから、
僕の希望は
一緒に作業をする友人がいてほしいというものでした。
帰りの遅い母を待ちながら、
僕は仲間というのが、
僕の歌の中にしかいないと
いうことも知っていたのです。
谷川さんも
その意味では僕と全く似ています。
だから僕は医者の手配から、
誤診を含め
葬式の葬儀委員長まで
すべてを頼むことができました。
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でも問題は、
僕がまだ死ねないということなのです。
死なない母の息子である僕にはやはり
死なない遺伝子が組み込まれているようです。
谷川さん、
僕の死は
僕の言葉の死でなくてはいけないと考えるのですが、
どうでしょうか。
言葉は死ぬのでしょうか。
言葉は死ねるのでしょうか。
僕がさっき自分の皮膚を見てみたら、
ほとんど剥がされていました。
もう液体が透けてみえてあふれだそうとしているのを
僕はいつまで押しとどめられるかあまり自信がありません。
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言葉は皮膚への刺青だったのですから、
読むためにみんなが剥いでいったのは、
当然です。
僕は、液体だとこの論の中で言われていますが、
液体なのはむしろ
谷川さん、<透過>していくあなたの方ではないですか。
皮膚がないので肌寒く感じることもなく、
故郷、青森で鍛えた
寒さへの耐性で
僕はなんとか持ちこたえられそうです。
あるいは、本当に故郷を愛してしまったのかもしれません。
谷川さん、またたくさんの言葉を待っています。
「一本の樫の木やさしそのなかに
血は立ったまま眠れるものを」(寺山)
(無事、完結いたしました。最後までおつきあいくださいまして、ありがとうございます。)