見出し画像

『晩年感覚」篝火、群青を過ぎた夜の

(わたしたちがひとりでいるときには、
自分のことをわたしと呼ぶ必要もない。
わたしのことをわたしと呼ぶのは、
そこにわたしをいったん遮るあなたがいて、
あなたにとってのあなたであるわたしと、
そう呼ばれて返事をする
わたしが隔てられるからにほかならない。

その両岸を往復するための
木霊がわたし、わたしと鳴る。

もし、あなたが
わたしから遠く離れているとき、
わたしはあなたと呼びかけることができず、
もっとべつの言葉、
親密が大気に薄れていく言葉で呼ばなくてはならなくなる。
あなたとは大声で叫ぶことのできない
産毛のような呼び声だからだ。

強く触れれば、
それはそれでなくなってしまう。
あなたと呼ぶには、
わたしかあなたがもっと近づいていかなければならない。
視線の力が衰えると、
鏡の中の自分の姿はぼんやりとしか見えない。
はっきり見ようとして
わたしたちは眼鏡をかける。
しかし、眼鏡をかけてはっきりと見るのは、
眼鏡をかけた自分たちの姿だ。

わたしたちが見たいのは
自分たちの素顔だ。
眼鏡を鼻の上にのせた顔ではない。
眼鏡をはずす。
再び像は明瞭さを失い、輪郭の強度を手放す。
明瞭に見ようとして再び眼鏡をかけるとそこに、
あなたが見える。
わたしはどちらかを選ぶ、
素顔のままの自分を見せるか、
自分が見るために素顔を手放すか。

だがどちらにしても若さはいつも欠如している。
欠如は自らの欠如に気づくことがない。
だから、若さはいつも再発見される。
わたしという顆粒へと還元され、
生命を分包しながら燃え続ける
孤独の篝火となりながらも、
見つけたもうひとつの篝火へと火を渡して、
さあ、これから生きようと思うときに、
なかば失われたものとして。

人生の正午、もしくはまだ曙にもすぎないとき、
わたしちの生命力がまだ
蛇口から外したばかりのホースのように
ためていた水をあたりに撒き散らすように
漲らせているそのとき、
死は予感にすぎないために、
ただの兆候にすぎないために、
しかし、自らを偽って生きていることの自覚の船に乗り込んで、
わたしたちの岸辺に接岸してもっとも漸近することができる。

青春において、
もっとも親しい友の名は、<死>である。

わたしたちが勤労生活に自らを監禁しても、
霊性の大地の放浪へ遁走して聖性を探しても、
身元を証明するものなく
底辺層に紛れ込んだと身をやつしたつもりでいても
死はきちんと挨拶の知らせを届けてくる。


だが、それもごく限定された時期のことであり、
やがて青春は突然、揮発し、終焉する。

季節の上に死ぬ人々の列に並んでいるうちに
晩年感覚は消滅する。

死は、もはや生理身体の上に顕現される
緩慢な衰弱として作用するだけであり、
わたしたちは無事生き延びることになる。
どのようにして、どこで。
そのようにして、そこで、ここで。

晩年感覚は、素顔を取り替えて
やがて秋の風として再来するだろう、
人生の薄暮、もしくは
もう人生の夕闇が群青を過ぎて
限りなく青みかがった黒、
星が照らすので
黒ではないと知れる深い青の時間に。)

                 (『晩年感覚』完)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?