見出し画像

『晩年感覚」 村上春樹、孤独の臨界(1/2)

(神がいない。
わたしたちは
神なしで生存しようと試みている。
神なしでということは、
魂の不滅なしでということだ。
輪廻からの成仏なしでということだ。
わたしたちは
一切の余禄なしで
この世界を生きていこうとしている。
わたしたちには、
現在この世界で見ることのできるものだけを糧として
生きていこうとする暗黙の了解がある。

しかしまた、
なぜ神をいないように
しむけてしまったのだろうか。
わたしたちの生きる理由を
神に預けて保管しておけば、
ただ無神論とその薄まりを飲んで
ときどき泥酔して暴れる者を
介抱するだけで、
ほとんどすべての人たちには
穏やかな人生が
約束されているのではないだろうか。

ただ目に見えないというだけで、
ただ自分の周囲に
不幸の霧が立ちこめたということだけで、
わたしたちはもはや
神を信じては生きていない。
視覚的な生存の形態に自分たちを限定して、
神の代わりに孤独を発見するに任せている。
神の再現なしで
わたしたちは
孤独の発見者のままで生き続けられるのだろうか。
おお、狩猟で暮らしたわれらの先祖よ、
わたしたちはいま、
自らを食んで生きております。)

村上春樹が描くのは、
孤独を発見してしまった者が
どのように自分以外の者との
交流が可能であるかということだ。

基本的には
ひとりで充足してなければならないと
見做して生きる。
実際にその信念通りに生きて
過ごすことができているうちはいい。

しかし、彼の充足が時おり欠けることがある。
孤独の発見がもたらす認識のその時の強度と、
認識として定着した後の強度には差異がある。

それは
体験が経験へと定位していく際の鮮度の差異だ。

その差異に生じる間隙に
彼の浮遊が始まる原因がある。
彼は自らの意に反して
自分以外の者を求めてしまう。

『1973年のピンボール』で僕は
ピンボールマシンの探索を始める。
硬貨の投入とともにゲームが開始する遊興器具の、
ボールを操作する腕の数や難度は
実に些細なことのように思われる。

それなのになぜ探索は始められてしまうのか。

孤独という存在様式の条件が
寂しさという感情に翻訳されたとき、
わたしたちは
変更不可能な原文ではなく
自分の訳文の方を変更して、
それに対処するからだろうか。

寂しさをどう振り切るか。
人間同士の交際において、
僕は望むこととは奪うことだと認識している。

自分が場を占めるということは
その分だけ他者から
場を奪うことになると考えている。
この考え方のために、
僕の選択肢は極めて
限定されたものになっていく。

寂しさの感情を振り切る手段として
他者に甘えかかることは
絶対に避けなければならない。
隠遁を基本思想とする僕にとって、
そのようにも他者を引き込む
自分本位な行動は
原理的な矛盾を生じてしまうからだ。

隠遁までの推移は
次のような変位を経ていくだろう。

孤独の認識から導かれた自己意識は、

-わたしはわたししかいない-

とまずは、
自分を限定するとともに、
自分をかけがえのない
貴重物として扱うこととなる。

しかしまだ、
自己の珍重は
次には他者の自己の尊重へと
導かれることとなり、

-あなたはあなたしかいない-

と鏡のように返答を木魂させながら
お互いを映し合う。

しかしだからといって
その融合が直ちに訪れることは、
自他が平面上に位置する限り
侵犯としてしか
発生することはできないので、
そこには
自他分断の閾が
緋色の絨毯のように敷かれており、

-だからわたしはわたしとしてわたし通りに生き、
あなたはあなたとしてあなた通りに生きる-

という、
敷物を汚さない
慎ましさが要求されているのであり、
再び踵を返して
隔てられた断崖を越えられぬまま

-わたしはわたしでしかないかけがえのない破片-

のままで
寂しさの感情を分泌しながら
漂流する蝸牛の軌跡を残すという
一連の流れを遡行することなく
辿らざるを得なくなってしまうのである。

であるならば、
他者でなくなる者とは
誰でありうるのだろうか、
他者の条件を越えて
交際という範囲へと越境できる者とは。

交際の対象として
人間は真っ先に候補から降ろされる。

次には飼育されているペットが来るだろうが、
生憎とそれもいない。
アニミスムの強く残った者ならば
自然との交流で代理するだろうが、
僕には森林体験が欠けている。

したがって、
向かうところは自分の過去となる。
それならば誰に厄介をかけることもなく
感情を注ぎ込むことを自ら許すことができる。

その過去から選抜される華やかな記憶が
スペースシップのピンボールマシンというわけだ。
僕と鼠との共通の体験を宿した機械であり、
僕がひとりきりの時期を共に過ごした仲間でもある。

     *

僕が本当にピンボールの呪術の世界に入り込んだのは1970年の冬のことだった。その半年ばかりを 僕は暗い穴の中で過ごしたような気がする。草原のまん中に僕のサイズに合った穴を掘り、そこにすっぽりと身を埋め、そして全ての音に耳を塞いだ。何ひとつ僕の興味をひきはしなかった。そして夕方になると目を覚ましてコートを着こみ、ゲームセンターの片隅で時を送った。

     *

『死者の奢り』の僕が死者たちと交際したのと同じやり方で
『1973年のピンボール』の僕もピンボールに向かう。

生きている人間たちとはうまく交際できないのに、
ピンボールとは会話が成立するのだ。

僕は彼女とはいさかいぬきで話し合える。
僕の告白の相手になることもできる。

     *

あなたのせいじゃない、と彼女は言った。そして何度も首を振った。あなたは悪くなんかないのよ、精一杯やったじゃない。違う、と僕は言う。左のフリッパー、タップ・トランスファー、9番ターゲット。違うんだ。僕は何ひとつ出来なかった。指一本動かせなかった。でも、やろうと思えばできたんだ。
人にできることはとても限られたことなのよ、と彼女は言う。
そうかもしれない、僕は言う。でも何ひとつ終っちゃいない、いつまでもきっと同じなんだ。

     *

そのピンボールマシンに再会するために、
僕は東京中のゲームセンターを巡ることもし、
ピンボール・マニアに調査を依頼したりもする。

そうしてやっと、
ピンボール収集家のコレクションに入っている
彼女の行方を突き止める。
僕は彼女に会いに行く。

何のためにか。

寂しさの感情を紛らわすためではない。
寂しさの感情の源を整理するためにだ。

なにげなく生きていることで
孤独の認識には微細な塵が降り積もる。
いまや鈍色を帯びたその認識に
元の彩色の鮮やかさを取り戻すためにだ。

体験から経験へと定位してしまった
孤独の発見を再体験するためにだ。

孤独の認識を強いる場、
そこをパスカルの佇んだ<葦の場>と呼ぶなら、
孤独の場に辿り着くには日常の場を離れてなければならない。

僕が職場の女の子と珍しく
口数多く真剣にしゃべるのも
場を大きく移動する前の興奮からだ。
僕は出発に際して上気している。

<葦の場>は特有の磁気を発散している。
そこに行くときにはひとりにならなければならない。

そこは同行者を排除する。
もっともなことだ。
孤独の場はそれを望む者によって
出現するようになるのだから。

『1973年のピンボール』では、
闇の中で何万という虫の声だけが
地上から湧いてくるように感じられる地域を通過していく。

昼間は
地球が太陽を向いているために
退けておくことができる闇が、
僕を覆いに訪れてくる。

原初からの暗さ、
わたしたちが発電を用いて
薄めようとする暗さが周囲を染めていく。

と、同時に人の気配は消え去る。
残るのは虫の発声だけだ。

自然が
人類出現以前の
冷ややかさで僕を迎えようとしている。
いよいよ場が接近してきたのだ。

僕を案内してくれたピンボール・マニアも、
その場を案内し終わると即座に引き返す。

僕は体を徐々に浸し始める
冷気と鶏の臭いに耐えながら、
養鶏場の冷凍倉庫へと、
僕が呼び寄せた<葦の場>つまり
孤独の場へと踏み込んでいく。

そこを支配しているのは沈黙と冷気だけだ。
僕は冷汗が流れるのを拭い、
沈黙に対抗するように口笛を吹く。

凍てつきそうな思考を揺さぶり起こし、
ピンボールに会いに来たことを思い出す。
おびただしい数の
ピンボールマシンのひとりとして
僕の彼女はそこにいた。
無益な情熱にうなされるようにして
探した彼女と再会したのだ。


いいなと思ったら応援しよう!