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我々ヨルシカファンが「考察」と名付けたそれは「解釈」と呼称するべきだという提言。
私はヨルシカというアーティストが好きだ。とても好きだ。大好きだ。
ボーカルのsuisとコンポーザーのn-bunaからなる二人組のアーティスト。文学的な詩とキャッチーかつ芸術的なサウンドを併せ持つ唯一無二のバンド。
この記事を読んでくれているということは、貴方もきっとヨルシカのことを好きでいてくる数多くの中の一人なのだと思う。もしもヨルシカを知らないなら今すぐにでも曲を聴いてきてほしい、聴くべきだ、彼らの音楽を知らない時間は人生の多大なる損失だ。おすすめのアルバムは「夏草が邪魔をする」、ヨルシカの何たるかを詰め込んだ素晴らしい作品なので是非聴いてほしい。
さて、そんなヨルシカファン(以後個体と呼称)の貴方に少し質問をしたい。
貴方はヨルシカについて「考察」をしたことはあるだろうか。
きっと個体の貴方なら少なくとも一度は考察をしたことがあるはずだ。先に述べたようにヨルシカは非常に文学的な詩を扱う。直接的ではない難解な表現や比喩が登場することも多々あるし、バックボーンのストーリーを一度で読み解くのは非常に困難だ。
だから我々個体の間では「考察」というワードがよく飛び交う。
散りばめられた詩やMVから手がかりを探し、紐付け、ヨルシカが、n-bunaさんが伝えようとしていることを100%受け取るため、多くの個体が「考察」と口に出し意見を交わす。
他の界隈に比べて非常に活発に「考察」というワードが登場するのはヨルシカ界隈の特色であり、それ自体は非常に素晴らしく愛すべき文化だと私は考えている。
だが、私はふと気になったことがある。
そもそも「考察」とは何なのだろうか。
我々が行っている行為は本当に「考察」と呼ぶべき行為なのだろうか、少し考えてみたい。
Oxford Languagesによると「考察」とは「物事を明らかにするためによく考え調べること。」という意味を持つ言葉らしい。つまるところ答えを知るために考え、察する過程を考察と呼ぶようだ。
確かに詩やMVなどの数少ないヒントから、持ち得る知識や情報を頼りに真意を探ろうとする過程自体は考察と呼んでも問題はないのかもしれない。
いや、一つだけ大きな問題があるように思える。
それは「考察」が「物事を明らかにするため」の「答えを知るための」行為であるという点だ。何が問題なのか、具体例を出して話そう。
かつて「藍二乗」という楽曲が公開された。アルバム「だから僕は音楽を辞めた」の一曲目にして、続編の「エルマ」まで含めたストーリーの中で最初に公開された楽曲だ。
この楽曲の中で初めて「エルマ」というワードが登場した際に、コメント欄では「主人公の亡くなった想い人なのではないか。」というような意見が散見された。それまでのn-bunaさんの楽曲はいなくなった人を思う歌詞も多かったため、自然な意見だと思う。「藍二乗」のそういった部分に感情移入をして楽曲を聴いていた個体も数多くいたはずだ。
だが、実際にはこの楽曲は自分を終わらせることを決断した主人公「エイミー」が、これから残していく「エルマ」に送る詩という位置づけだ。
つまるところ、多くの個体の「考察」は外れていたのだ。
先ほど「考察」とは答えを知るための過程であると説明をした。そうであるならば、外れてしまった「考察」は、それまでの楽曲を深く理解するための過程は、彼らの感情移入は、好きの形は、すべて間違いであったのだろうか。
そんなわけがない。
音楽は、答えが正しいのかどうかの〇✕クイズではない。作者が意図したストーリーだけが正解だというのであれば、音楽という形態ではなくもっと詳細に記した長編小説でも書けばいいのだ。
だが「考察」にはいつか答え合わせの日が来てしまう。それまでの自分の向き合い方が、間違っていたのだと突きつけられる瞬間が来てしまう。答えを知ったからとその日から別の向き合い方をするだなんて、それではまるで、それまでの自分の愛し方そのものが間違っていたというようなものじゃないか!
だから私は「考察」という言葉を好んで使うことはしない。
代わりに「解釈」という言葉をよく使うようにしている。
ここからは、なぜ「解釈」という言葉が適していると考えるのかについて話をさせていただく。
そもそも「解釈」とはどのような意味の言葉だろうか、「考察」とはどう違うのだろうか。
Oxford Languagesによると「解釈」とは「文章や物事の意味を、受け手の側から理解すること。また、その理解したところを説明すること。その内容。」という意味を持つ言葉らしい。つまるところ情報を受け取った側がどうやって紐解き、それを釈くのかといった意味合いだ。
ここで注目してほしいのが「受け手の側から」といった文章だ。「解釈」とはあくまでも受け手がどのように理解をするのかに重点が置かれた言葉であり、答えを明らかにするための「考察」とは捉えている視点が違うのだ。
偶に「解釈違い」といった気持ちの悪い言葉を耳にするが、そもそも「解釈」とは受け手それぞれに委ねられたパレットなのだから、他人と解釈が違っていようが本来関係がないのだ。
我々個体には、きっとそれぞれ違った好きの形がある。楽曲やライブの受け止め方や、背景ストーリーの理解にだってきっとそれぞれ違いがある。
「解釈」とは、ヨルシカが細部にまでこだわって描き上げた芸術を、自分個人の枠組みに押し込み、好きな形で味わうための行為だ。
拘り抜かれた、神様が宿るとすら形容された創作を、一個人の解釈に委ねて自分だけの解に置き換えてしまうような行為だ。
なんと愚かで、なんと傲慢で、なんと独善的で、なんと贅沢な、人間の美しさと醜さが集約された行為こそが「解釈」なのだ!
確かにn-bunaさんの脳内には確かな「答え」があるのだろう。
それでも、好きな音楽を、好きな言葉を、好きな詩を、好きな映像を、好きな舞台を、好きな演出を、好きな救いを、好きな感情を、好きな解釈を。
それを選んで受け止めて抱きしめるだけの度量が、我々の人生にはきっとある。
好きになる方法を選べるくらいには、我々が愛するヨルシカの世界は広く、そして無限の可能性に満ちたものであるはずだ。
無限の可能性を、貴方がどう受け止めたのか。どう受け止めていたいのか。どう愛していたいのか。きっと音楽は、n-bunaさんは、ヨルシカはそれを肯定してくれる存在であると信じている。
だから私は、我々の好きの在り方に「考察」だなんて限定的で終わりのある名前を付けたくない。
傲慢だろうと、独善的であろうと、一人一人の好きの形を、貴方だけの好きを大切にできる「解釈」と呼びたいと思う。
以上、我々ヨルシカファンが「考察」と名付けたそれは「解釈」と呼称するべきだという提言。でした。