見出し画像

貴女所感

 どうせ、こんな事を言うと、貴女は「そんな事言わんといて」と言って一生懸命私をあしらおうとするのです。しかし私には、そうは言いながらも羞恥やら何やらで困ってしまう貴女の顔が、脳裏をよぎって仕方がありません。そして私は、貴女のそんな反応が楽しみですらあります。
 端的に言います。私は、貴女の、泣きそうなのを必死にこらえて笑顔を作ろうとしている瞬間が、いちばん美しいと思うのです。いや、美しいなどといったありふれた言葉に置き換えてしまうのは忌まわしい。それは、素直な貴女が、唯一私に嘘を吐こうとする瞬間なのですから。その何とも艶冶である事。月夜の桜とてここまでの婀娜っぽさを湛えた例しはありません。
 私が貴女のこの不思議な魅力に気付いたのは三年前の夏、あれはちょうど、貴女がヴァイオリンソロの学生コンペティションに出るというので、私がピアノの伴奏を務めるべく二人で音を併せていた時の事です。覚えているでしょうね。フォーレの「シチリアーノ」*を演奏した、あの時です。当時、貴女と私は、殆んど何の面識もありませんでしたね。私が貴女について持っていた印象というのは、気が弱そうだとか、育ちが良さそうだとか、そんなありきたりなものばかりでした。正直に言いましょう。私は、貴女に苦手意識さえ抱いていました。斯様な思いを除いては、こんなにも主張性のなさそうな子が、本当にヴァイオリンを、それもソロを弾けるのか、という不安が残りました。あまりにも貴女が内気に見えたものですから。
 しかしそのような懸念は、実際には必要のないものでした。冒頭のピアノ伴奏の後のヴァイオリンの入り。溶かされた糖蜜のような艶やかな音、煽情的なフレーズ感、そして切なげな貴女の表情。その時の貴女は、完全なる表現者でした。溶かされていたのはヴァイオリンの音ではなく、私の感性の方でした。そしてその感性は、ピアノの音に表れ、半ば衝動的に、ヴァイオリンのメロディを煽りました。ピアノに駆り立てられた貴女の音を聴いてみたくなったのです。すると、追い詰められゆく焦りと不安から貴女の音は表情を失い、なめらかさを失い、艶を失い……己のテヌートが途切れた事に気付いた貴女はついにその右手までを止め、完全の無音の内に、私に視線を投げかけてきました。
 その刹那、私は、電流に打たれたような感覚に陥りました。視界に貴女以外を認識できなくなるほど、貴女のその表情に吸い込まれました。何か悍ましいものを見てしまったかのような恐ろし気な瞳。音を止めた言い訳をすべく小さく開かれた口元は引きつったまま上手く動かず、私への恐怖を取り繕う為の笑顔は、結局不完全な形で私に向けられました。泣きそうなのを隠す為の弱々しい笑顔。これ程までにも煽情的な表情が、この世に二つとあるものか。永遠に見ていられたらと思う反面、私は、どうしても貴女を泣かせてみたいような心持ちになりました。必死に涙をこらえようとしている貴女に一種の愛おしさにも似た感覚を覚えるのであれば、泣いている貴女には如何ばかりに感情を動かされるのか。見惚れた為の吐息にも似た掠れた声で、「なんで音止めたん」と貴女に問いました。貴女が音を止めたのが私の所為なのは知っていました。要は、貴女の私に対する気弱な性質を利用して、貴女が答えられない質問を、敢えて私は投げかけたのです。貴女のその絶望にも似た何かを涙の形にして見せて欲しくて、つい意地の悪い事を言いました。そう、その時の貴女の悲愴に満ち溢れた顔!眼窩いっぱいに湛えられた憂い、それでも泣くまいと歪んだ口元や眉。何と言おうが未だ嘗てこれを凌駕するものに出会った事がない。しかし実際には、そんな貴女を目前にして、「美しい」以外の語彙を思い付くだけの精神的余裕はありませんでした。ただひたすらに「美しい」としか感受できなかったのです。
 ここまで言えば、幾ら貴女といえども分かるでしょう。私が、貴女の伴奏係りを務め終えてもまだなお貴女と懇意にしている理由。貴女は気付いていなかったでしょうが、私は、貴女の表情を、近くで見ている権利が欲しかったのです。
 とにかく。苦痛を隠そうとする貴女の笑み。これほどまでにも愛おしく艶冶であるものはないという事だけは、伝えておきます。何故斯様な事をいちいち伝えたのかって?決まっているじゃないですか、貴女のその顔が見たかったからです。

  参考音源
* https://youtu.be/cCjUwNq5nF0 

【この作品はLL Magazine 8月号に寄稿しています】


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?