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月下小話

  月影を仰ぐ窓辺に白菊の散りゆく様はしづ心なし
 ある人から白菊を一輪、頂いた。切花だから、日持ちはすまい。余命数日の花を、とりあえず枯れるまでは見守ってみようと思い、細長いガラスの花瓶に挿した。特に置く場所もなかったから、邪魔にならないように窓辺に置いた。その時は、それだけだった。
 晩。外がやけに明るい気がして眠れない。窓越しに秋らしい月を仰ぐ。ああ、今夜は満月か。そういえば久々に月を見た。こうも明るいものだったか、と不思議な感慨に浸る。あれほどまでに凛冽たる印象を与える月からは想像できないような、まさに婉然たる月光が、自室の空気を染める。染まりゆく空気に浸るはかの白菊、月下に斯くも美しく咲くか。もはや菊花自体が月にさえ見えた。このような感動を覚えてしまった以上、如何に眠ろうか。

  徒然に開く文庫は香り立ち月は登りて宵は来たばかり
 眠れない晩に本を開くのは、小さいころからの癖だった。小学生の頃なんかは夜な夜な「赤毛のアン」シリーズを読み耽っては寝落ちしたものだ。「赤毛のアン」シリーズは、年を経て宮沢賢治になり、最終的には芥川龍之介になった。本棚を前に過去を思い、同時に今晩の安眠剤を選ぶ。「明月記」、「雪明りの路」、「鏡花全集」……暫く背表紙を眺めていた時、本棚のいちばん隅の『歯車』を認めた。これは、去年の下賀茂納涼古本まつりで見付けた一冊だった。一九七九年に刷られたもので、表紙にもページにもヤケが目立つ。そしてページを開くと、古本の芳しい香りがする。他の出版社のものよりも文字のポイントが小さいのもひとつの魅力ではあるが、月光は文字を読むには幾分暗い。
 しかし。このままで良い。古本の香りに包まれて、ページに落ちた文字の影を追うだけで充分だ。それに、夜に目が慣れれば、もう少しはっきり文字を追えるようになる。それまでは、本の雰囲気を味わっていれば良い。

  アーク灯その下惑う黒猫の瞳に宿る十五夜の月
 それにしても月影は逍遥を誘うものらしい。気が付けば私は夜道にひとり佇んでいた。窓を隔てずに見る月は一層冷涼に感じられた。
 真っすぐに伸びる細い道、所々に立っているアーク灯。その下に、黒猫が一匹。野良猫だろうか、不信感を漂わせながらこちらに視線を投げかけている。その丸い瞳に映る、丸い今晩の月。何とも愛らしい。お互いに寂しいもんだねえ、と呟いてみると、猫は身を翻して逃げて行った。

【この作品はLL Magazine 10月号に寄稿しています】

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