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ep19 隣人たちへ

別れをお互いに自覚できるということは、幸運なことなのかもしれない。

鳴海ニュータウン車庫のバスを降りて坂を登る。高台に抜けると右手に広がる静かな海が目に眩しい。15年ぶりに帰った団地は、驚くほど変わってしまっていた。

「団地」というのはニュータウンの人たちの通称で、実際には30戸ほどの小さなマンションが2つ並んで建っているだけの県営住宅だった。戸建ての住宅が並ぶニュータウンと区別する意味もあって、小学生の頃から坂の上の2つの奇妙な建物を、みんな「団地」と呼んでいた。

外壁は塗り替えられて、2つ並んで仲良くおかしなピンク色になっていたし、毎日放課後に遊びの相談をした中庭の公園は、駐車場になっていた。団地脇のネズミ球場(ただの小さな公園だけど、僕たちはそう呼んでいた。)は野球なんか到底できないほど、草ボウボウになっていて、少し登った先の、給水塔脇の広場はまだ多少キレイにされてはいたけれど、尾根を越えた先にあった段々畑は、みんな荒れ地になっていた。

昨夜久しぶりに話した両親も、部屋にほったらかしの風船がしぼんでいくように、少しずつ老いていこうとしている。聞けば県営住宅は空き部屋が目立つようになってきていて、しかも住んでいるのは老人ばかり。子供の数は今はもうわずかになってしまったそうだ。

小さな小さな、たくさんの思い出たち。僕はいつの間にその思い出たちと別れてしまったんだろうか。

ネズミ公園のネズミ像に「今日で最後だよね、ごめんね。」なんて言ってみればよかったんだろうか。ニュータウン中央のスーパーで働く友人の母に、「今日までお世話になりました。」と頭を下げればよかったんだろうか。僕の小さな思い出たちは、もう二度と会えないことに気づきもせずに能天気に団地を出て行った僕を、恨んではいないだろうか。

2号棟の左端、僕の部屋の真下の3階に、同級生の女の子がいた。少し変わった子だったけれど黒目の大きなキレイな子で、4年生くらいまではお互いの家を行き来して、僕の昆虫図鑑を眺めたり、彼女の好きなプリキュアのアニメを見たりして過ごすことも多かった。なんとなく僕のことが好きなのかな、なんて思ったこともあった。

だけどいつもと同じ『じゃあね、』は、どこかで最後の『じゃあね、』になった。

小学校6年生の秋ごろからだったろうか、段々と彼女は学校に来なくなった。周りの子よりも成長が早くて、彼女に向けられる聞くに堪えない下品な言葉は、僕の耳にも聞こえてきていた。でも臆病な僕が心の奥でメソメソと嫌な思いをしている間に何もかもが手遅れになって、中学1年の夏ごろからは、団地の中でも外でも、彼女の姿を見かけることは完全に無くなった。

中学生になって、部活の帰りに僕が2号棟へ近づくと、僕の部屋の真下のカーテンがシャッと揺れる。彼女は2号棟に近づく人をじっと、観察しているようだった。1号棟の友人は『気味わりいな』と言っていて、僕はそれを困ったような顔でやり過ごした。

「秋野さんなら、あんたが出ていってしばらく後かな、もう何年も前に出て行ったよ。」

昨夜ストロング缶で顔を赤らめていた親父は、不登校だった彼女の行く末には全然興味が無いようだった。

雨の朝だった。団地の朝は今も昔も、雨が降るとぞっとするほど静かだ。『じゃあ、また。』と両親に簡単に挨拶をして、湿った階段を降りた。振り返って下の階の窓を見上げると、灯りの無い部屋はカーテンが取り外されていた。父の言う通り、彼女はもうこの団地にはいないみたいだ。

高校生、大学生になってからも彼女の噂は時々聞こえてきていた。どれもこれもひどい話ばかりで、マッチングアプリでパパ活しているとか、市内のガールズバーにいたとか、男にひどい振られ方をしたとか、パチ屋に朝から並んでたとか、そんな話ばかりだった。

15年ぶりに帰ってはみたけれど、連れて帰る家族も無いし、両親とも特段話すことも無い。多分次に帰ってくるのは、両親のどちらかが死んだ時になるだろう。

中庭の公園、ネズミ球場。両親の未来と、3階の彼女。さよならを言うことも無いまま、僕はたくさんのモノと別れていく。誰もいないはずの部屋から、あの日の彼女がずっと僕を見ている。どうして助けてくれなかったの?たった一回でもあなたが玄関の呼び鈴を押してくれたら、くれたら。くれたらなんだったっていうんだ。

どうしようも無かったと今は思う。僕にはたまたま日本人男性の平均的な身長や顔面や身体能力な人知的能力があって、彼女はたまたま人よりも美しくて、成長が早かった。そして僕も彼女も、同じように弱かっただけだ。

路傍の雑草の野心が、歩道にかぶさるように差し迫っていて、足元が濡れるのが嫌で眼をやった。細い雑草にまじって、ぷっくりと実ったカラスノエンドウを見つけた。

ひとつちぎって手に取る。雨に濡れて鮮やかな緑色をしている。青臭く濡れた匂いで、いつかの帰り道のことを思い出した。

普段は4、5人で固まって坂を登って帰ってくるのだけど、どうしてかその日は彼女と二人だった。

同級生たちからからかわれはじめていた頃だったから学校では少し話しづらかったけれど、二人になればいつものように話すことができた。

僕はカラスノエンドウをひとつちぎって、爪で割いて、中の小さな豆を出して、片方の端を切って、口にくわえて吹いた。

ぴいっと大きな音が鳴って、彼女は「どうやるの?」と眼を丸くして驚いていた。

「女子はこんなことも知らないのかよ。」

ちょっとかっこつけた僕の言葉に、彼女の表情がくもった。

「教えてやるよ。」

僕が吹いた即席の笛を彼女が口に加えて吹くと、同じようにぴいっ、と大きな音が鳴った。しばらく二人でカラスノエンドウを探して、切って、吹いて、遊んだ。失敗してすかしたような音が鳴ると腹を抱えて笑い合って、ふざけあって、汗をかいて、それからどうしたんだっけな。その先はもう何も覚えていなくて、ただただ、胸が苦しかった。

雨に濡れるカラスノエンドウを、あの日のように笛にしてみた。

割くのはこっちでよかったんだっけ?どっちの端を切るんだっけ?どっちを口にくわえるんだっけ?

笛の作り方は全然覚えていなくて、思い切り吹いていても、すーっと、息が抜けるばかりだ。

音のならない笛を吹きながら、声にならない声を上げながら、坂を降りた。鈍色の海もやがて隠れて、乗り込んだバスに乗客はまばらだった。

さよなら。

その一言をどうしても言い出せずにいた。指先に残る青い匂いと、息が止まりそうなほどの胸の苦しさ。それだけは抱えたままで、せめてもう少し生きてやろうと思った。

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