ep15 寄る辺ない朝

始発のバスは6:07に車庫を出る。団地の中に停留所は4つ。そのうちひとつは団地より北から来るバスと北へ向かうバスしか止まらない。今朝は風の無い穏やかな朝だ。車庫の裏の森はシイやカシのまだ低い木が茂っている。梢が透けるように光っている。

バス停にはもう10人ばかりの人の姿があった。昨夜のメールの返信を思い出してにやけそうになるのをこらえている高校生の佐藤君。明日の休みに子どもたちをどこに連れて行こうか考えている看護師の松田さん。公務員の白木さんは今日の仕事のことを考えて体が重い。ゆうべもよく眠れなかったみたいだ。

バスにエンジンがかかる。運転手の入野さんは、今日の仕事はお昼すぎまで。帰ったらゴルフの打ちっぱなしに行こうと思っている。ブルルンと煙があがって、くすぶったような温かい匂いがあたりに散らばっていく。

始発のバスがバス停について、ドアが開いた。料金は後払い。数年前から定期券もICカードに切り替わった。並んでいたみんなが続々とバスに乗り込んで、みんな車内の暖かさにホッとした顔をしている。

最後に乗り込んできたのは、柳くんだ。柳くんは勤めていた福岡の会社をやめて、この前の夏に街へ帰ってきた。野良猫のような眼をして座っている柳くんは、医学部への進学を目指して、予備校に通っている。予備校の自習室は7時から開いている。毎日その時間に行くのは、勉強をしたいからではなく、家にいたく無いから。

仕事も、何もかも捨てて帰ってきた24歳の柳くんを、両親はやさしく迎え入れてくれた。少なくとも表面上は。でも心の中は、腫れ物扱い。普通の道をそれた柳くんにどう接したらいいかなんて、両親にはわからなかった。

世間知らずで、狭量で、気の弱いバカ。

大事に育ててくれた両親のことをそんな風に思ってしまう自分が心底嫌で、柳くんは今日もイヤホンでシューゲイザーを聞いている。ひずんで、重なって、響いて、音楽が小さなバスの中の柳くんを宇宙へ連れて行ってくれる。

「本気になれば、なんだってできる。」

周りからも、また自分自身も、そんな風に思いながら生きていくのは少しつらい。

看護師の松田さんは22歳。実は斜め前に座る柳くんに気づいていた。高校の2つ上の先輩。そんなに目立つタイプでは無かったけど優しそうな人だった。かっこいいって言っている友達もいたな。福岡に行ったって聞いたけど、どうしてこんな時間にバスに乗っているんだろう。帰省してきて、福岡に帰るのかな?

数秒そんなことを考えて、また仕事のことを考えた。今日は日勤。明日は夜勤。それが終われば休み。3日遅れでようやくお正月らしいことができそうだ。

仕事は忙しいけど、楽しい。今は彼氏がいないけど、もうしばらくしたら結婚して、子供を産んで。たまの休みに遊びに出かけて。もしお医者さんと結婚できたら専業主婦になるのも悪くは無いけれど、あんまり楽しくもなさそうだ。そもそもお医者さんと結婚なんかできないけど。普通のサラリーマンとかだったら、きっと私も働き続けるんだろうな。仕事を覚えて、婦長になって。後は何があるんだろう。老後?よくわかんないな。両親の介護はお兄ちゃんと相談しないと。なんか私ってなんなんだろう?趣味も好きなことも無いし。あと40年?50年?同じように生きていくのはちょっとぞっとしちゃうな。

そんな考えにおおいかぶさるように、今日の仕事の予定が頭を駆け巡る。

鳴海ニュータウンを出る頃には、バスはほとんど満席になった。寄る辺ない冬の朝を、バスは走っていく。海岸近くを、南へ。左側の座席からは静かな鉛色の海が見える。

ブルルンと音を立ててバスは走る。コンビニの駐車場には、夜通し遊んだ大学生の車が止まっていて、灰皿のそばでタバコをふかしている。車内は静か。柳くんのイヤホンからほんの少しもれる音も、ブルンと震えるバスのエンジン音にかき消される。

井手園の大きな交差点に差し掛かる頃にはもう、夜の名残は消えている。今日一日の、それぞれの仕事をするための、外向きの顔。

バスは白い煙をはきながら、長い坂を上がって、道ノ尾の峠を越えて、背中を丸めて街へと消えていった。


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