変な大人
鳴海ニュータウンには、少し変わった大人たちがいた。多くの人が気にも留めないだろうけど、僕にとっては忘れられない人たちだ。多分、僕が書かなければ何もなかったことになってしまうから、そういう意味では、変な大人たちのことを書いておくのには、いくばくかの意味があるように思う。
朝の6時になると、団地を一周するおじさんがいた。いつも同じ灰色のジャージを着て、決まったルートを走っている。僕はひそかに彼を「ジャージおじさん」と呼んでいた。いつも口をとんがらせて、つらそうな顔で走っている。そんなにつらいならやめたらいいのにと思うけど、やっぱり毎朝、バスの窓から彼を見つける。毎日走っているのに全然走るのが速いわけでもなくて、てろてろてろと、引っ張られるように走る。高校生の頃、千五百メートル走を一生懸命走っている時に、僕はどうしてかジャージおじさんのことを思っていた。ガシガシ必死に走りながら、僕はおじさんに憑依して、町をてろてろてろと走っていた。
スーパーグラシアスの入口には毎日決まった時間に現れるおじさんがいる。彼の名前はヨシオさん。彼はカードダス(二十円いれてダイヤルを回すとカードが出てくる、あれ)の前に立ち、いらないカードが出たら近くにいる子供たちに配るから、その怪しげな風貌に反して子供たちには人気があった。ひょろりとやせて、変な色のチノパンで、髪の毛もボサボサで、分厚いメガネの奥の目は、どこを見てるんだかよくわからない。子供たちは彼を「カードおじさん」と呼び、気安く話しかけていたけれど、当のおじさんはほとんど喋ることはなくて、曖昧な笑みを浮かべてスタスタどこかへ帰って行った。
週末の公園でちょっとした事件もあった。子供たちがサッカーをしていると、犬の散歩をしていたおじさんが突然、「俺もいれてくれよ」と入ってきた。まあそこまではよかったけれど、問題はそこからだ。彼はサッカーに夢中になりすぎて、自分の犬を忘れてしまった。フェンスにつないでいた犬がリードをガブガブかじっていて、それに気づいた子供が「おじさん、リード切れそう」と教えてあげても、「大丈夫大丈夫」と見にこようともしない。しまいにはリードをかみきった犬が逃げ出してしまって、近くにいた子供たちが大声で教えてあげても、「自分で帰ってくるから大丈夫」と取り合わない。そうして充分にサッカーを楽しんだあと、さすがにまずいと気づいたのか、おじさんは車で犬を探しに行った。見つかったのかどうかは、おじさんとその家族だけが知っている。
鳴海ニュータウンには、奇妙で愛すべき大人たちがたくさんいた。でも風変わりな彼らは、子供たちが「大人ってなんだ?」と考えるきっかけにもなった。「大人なんて、大したもんでもないなあ」と思うたび、僕ら彼らのことを思い出す。ひょっとしたら今の僕よりも年下で、おじさんと呼ぶような年齢でもなかったかもしれない。こうした大人たちがいたということが、なんとなく僕を安心させる。鳴海ニュータウン。なんとなくとぼけてつかみどころの無い、いつか新しかった町。僕が出会った変な大人たちは、そんな町を、なんというか、象徴するような何かに思えて仕方ないのだ。
〈了〉