古参の「あの頃は良かった」
昔を知っている人たちは
あの頃は良かった が言える
それは知っているから
今 しか知らない人たちは あの頃を理解することはできない。
どんな分野でもそうだ。
でもね “あの頃は良かった” というあの頃を
支えた人がいなかったら今はないということは
間違いない事実だよね
そこがなかったら 今はなかったっていうのが
大事なことだと思う。
なんでも 目的とか
やってるうちに途中で変わっちゃうじゃない
例えば 私の noteなら
とりあえず なんか記事が売れるようなシステムらしいよ
記事売れたら めっちゃ楽だよね
じゃあアカウント作ってみよー
が
いつの間にか フォローしてくれる人増やすのが楽しくなって 記事とかよりもフォロワーの数に一喜一憂しいてたし
記事うるぞーって思ってたはずなのに
毎日更新を続けることの方が大事になったりもした
とにかく毎日なんか更新してたらいいんちゃうん?って感じに
それはこのnoteってシステムと 自分の関係性上
どう使うかっていくかって目線で見た時の
私とnoteの共存の仕方で選んだ結果が、そういう現実になっただけ
昔は良かったかどうかはわかんないけど
昔は そんなガッツリここに書いてなかったことは確か。
noteの良さとか どんなものなのかも
わかんなかったから
「昔は良かった」ってかけるほど noteの昔を知らない古参 の一人。
昔は良かったって語れる 古参には感謝がある
ほんま続けてくれてありがとう 使い倒してくれてなかったら こうはなってないわなって わたしゃ思ったりする。
それは仕事も一緒だろうし
他の分野もそう。
変わることで使い勝手も参入している人も変わる。
そうすると 小回りきいて 制約が少なかったであろう昔の方が良かったって思うのは当然なんじゃないかな?とか思うことがある。
みんながズルしたり、使っているうちに
ここは しっかり約束事を作った方がいいなって進化した結果
使い慣れた人にとっては、いまいちだなこれ・・・・ってなる部分はとうぜんあるもの
変わるんだから 受け入れ難いことも当然あるじゃない・・。
インターネットの世界に小学生が入ってきた頃
「昔は良かった」と私も思っていた。
それは、ここに入れば年齢関係なく対等にやりとりできた世界だったインターネット
すごい人も まだすごくない人も 意識せずにやりとりできた時代。みんなルールとかもまだなくって
仲間意識で助け合って オンライン上だけだけどいろいろ関われてた時代
そんなところを知っていれば
今の 投稿に制限がかかったり、騙されるサイトに意識を向けながらネットサーフィンしたりするのは
慣れるまでは、厄介ごとに感じて 昔は良かったぜと思うことにならない?
騙す人めちゃ多いから 知ってる人とだけ
面識ある人とだけフォローし合うみたいな
面識あるひとでも 偽アカウントかもしれない!なんて危険は 昔は今ほど意識しなくたって良かった
「あの頃は良かった」はきっと山のようにある
あの頃を知らないからと
「あの頃は良かった」を老害扱いする人がいるが
老害なんじゃない
歴史を知ってるってだけのこと
古参も 新規参入した人も
やってることはおんなじかもしれない
お互い自分が知っている世界を押し付け合って
理解しろ!って言い合ってるようなことなのかもしれないよね・・・・。
今そこにいて、そのシステムの中にいる人は
「今は今でいいけど 昔は良かった 」なのかもしれない
今はいまでいいっか・・・・って思えてなければ
そこにい続けることなどできないかもしれないっとおもわないかい?