『MINAMATA』を見てきた。
見にいくつもりのなかった映画。
重い題材の映画は好まない
毎週のように映画に行き 年間100本映画館で映画を見てやると思っていた頃の私とは今はもう違う。
まあ結局 あの頃も頑張っても
70本ほどまでしか見に行けなかったのだが・・・。
あの頃は 好き嫌いとかいってる場合じゃなかった
時間の合う作品をこなしていた感覚がある。
数字のために・・・。
でもそれはそれで 自分の身になったと思う
今の私の一部は間違いなく作っている。
映画館でその本数を見るとなんで思ったかわからないが 毎週映画館にいた。
仕事帰りだったり 休日だったり・・・
それはまた別の話だったな・・・・。
あの頃は 得意不得意なんか関係なく
手当たり次第に見ていた。
1日 水曜日は 映画館にいた。
でもあの頃と違うのだ 映画を見にいくにも
なんだか罪悪感がある
隣との距離感 会話 飲食 気にもなるし
気にもされてる感覚もある。
席を決める時も隣は開けるようにするし
シアター内で飲食しないようにもしている。
誰かと行くことも無くなった。
それでも映画館に行く
今だからこそ 明るい映画を見たい
楽しい映画を見たいと思うのは 当たり前だと思う。
なのに見にいった「MINAMATA」
水俣病なんて小学校の社会の教科書くらいでしか触れてこなかった
子供時代にたとえ裁判がどうだったとか
あったとしても
ニュースになど興味もなかったし 全然自分の人生とは違う世界の話だった。
事件事故なんて正直全然 よその世界の話だ。
大統領が誰でも 総理大臣が誰でも
私の毎日は 何も変わりはしない・・・。
すぐに何かがゴロッと変わってしまうことなど
想像できるような 人間じゃない。
この映画の写真を見た時
なんだか見覚えがあるなとおもった。
それは 映画を見終わるまでなんだったかはわからなかった。
映画を見終わり noteを散歩していて
あ!と思う。
artday - chiaki さんの過去記事に多分ある・・・。
この構図の写真がたぶん・・・。と
過去記事を漁った・・・。
ほらね・・・・ 芸術系のことは
写真家ならきっと
artday - chiaki さんのところへ行けば
情報があるものだと もうインプットされている。
映画の中で 刺さる事がある
写真 私は人はあまり撮らない
自分もあまり映りたくはない・・・。
それは魂が抜かれるという感覚がどこかにあるのかもしれない・・・
自分の感覚とセリフをつなぐ事ができるのは
写真を撮る自分という存在も 私の中にはあるから。
今この場所この瞬間を切り取っておくことの大切さ その場所の過去を伝えることの大切さ
写真にはそんな役目がある
そのまま あるものを切り取る・・・。
写真というものが どれほど 流れをつなぐ役割を担っているかを考える・・。
映画は確かに重い題材だけれど
そして今も続く問題なのだが
それだけではないものを伝えもしてくれる。
ジャーナリズムに於ける私の責任は2つあるというのが私の信念だ。第1の責任は私の写す人たちに対するもの。第2の責任は読者に対するもの。- ユージン・スミス
artday - chiaki さんが記事の最後にこの言葉を
追記されていた・・・。
映画の中にも 写真というものに対するセリフがある
そのセリフたちが たくさんの人に届くといいなと私は思う。
そのセリフは上部だけでしか捉えられなかったとしても コレからの未来 生きていく私たちが考えることや 問題に対して進む 大きな扉につながるはずだから・・・。