神智学の話ってなんかワクワクする。
スピリチュアルというやつは 全然古くない世界だ。
いろんな勉強をしていく中で
知った 神智学というもの
内容まではあまりわかっていないが
今一般的になっている 占星術も この影響は大きく受けている。
伊泉龍一先生を出会わなかったら
私は多分こんな風に 地に足がついたスピの人とは言われてなかったかもしれない。
それもこれも こんなにそもそもにこだわって 占星術や タロットを 考えるようになったのは 伊泉先生のおかげであるからだ。
そう考えると 自分ごとにしか言い換えられない占い師との出会いは感謝の出会いだった。
不快な思いや 傷ついた心は この出会いの代償でもあるのかもしれないと思えば
当たり前の衝撃だったのかもしれないとは今は思える。
現代のスピリチュアルというものの歴史の
最初には 動物磁気やメスメリズムなども含まれてくるが 土台になる物に ブラバツキー夫人が中心となった 神智学ってのがあるのだと いうのは押さえておくべき源流だ。
それを理解せずに 扱うことで方向性が曖昧になっているとも言えるのかもしれない。
久しぶりに その辺りの知識に触れる機会があって
話を聞きながら 断片的に深く理解できる部分を感じながら 今まで学んだことを 違う系統の人から聞くことの 目新しさ 見えなかった面白さを 実感することになった。
むかし あんなに大真面目に突き進めてきたものを
私たちがこんなに簡単に こんなに 軽く使ってはいけないのではないだろうか?
そう思えるのは そこに流れる理論を少しでも感じているからかもしれない
ライトに簡単に
そういったことが さらに 本当のリーディングをできなくしている。
物質的有限の世界において 凪を目指すこと
快楽や楽しいを追いかけることでは
繋がることができないというのに その部分を
押すスピリチュアリストが偽物であると
そう結論づけられるその人たちと話をしながら
太陽系に生きるという大前提にいる私たちが
超えることのできない理を逸脱せず
過去からの流れを しっかりと学んだ物たちであるということかもしれない
その 理が間違っているかもしれないが 学んできなかった人たちよりは 真理に地下いいところで行ってるのではないだろうか?
このかんかくを 言語化できない 無力さを
無能さを 考えた時 もっと伝える力を
伝わる力を手に入れたいと思うのだ・・・・。
#誰かに届け #自分らしく書く #エッセイと言っていいのか #エッセイ #記憶より記録 #スイッチが入りました #無力 #無能